「君死にたまふことなかれ」

 1904(明治37)年、日露戦争での旅順攻撃をニュースで知った与謝野晶子が戦場の弟の生命を気づかって『明星』の9月号に発表したのが「君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」でした。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、晶子の詩への当時の人々の反応はどうだったのか、そして何より、今の人々にどのように響くのでしょうか。

日露戦争は明治37、38年で、戦後の明治41年に晶子は赤倉温泉を訪ねています。

 「家族のために死んではいけない」という主張をそのまま受け入れるウクライナの人々は少ない筈で、彼らは「家族のために戦う」と言うでしょうし、今の日本の多くの若者は家のために生きることに抵抗感を持つのではないでしょうか。とはいえ、この詩が身近の人々を悲しませることが戦争であり、それは無益なことだと主張していて、反戦歌であることについてはウクライナ人も日本人も認めるのではないでしょうか。

 詩の全文を以下に引用しますので、読み直してみて下さい。私なりの感想はその後に述べることにします。

            

あゝをとうとよ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

 

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも、

親は刃(やいば)をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや。

 

堺(さかひ)の街のあきびとの

舊家(きうか)をほこるあるじにて

親の名を繼ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。

 

君死にたまふことなかれ、

すめらみことは、戰ひに

おほみづからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獸(けもの)の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思(おぼ)されむ。

 

あゝをとうとよ、戰ひに

君死にたまふことなかれ、

すぎにし秋を父ぎみに

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に、いたましく

わが子を召され、家を守(も)り、

安(やす)しと聞ける大御代も

母のしら髮はまさりぬる。

 

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻(にひづま)を、

君わするるや、思へるや、

十月(とつき)も添はでわかれたる

少女ごころを思ひみよ、

この世ひとりの君ならで

あゝまた誰をたのむべき、

君死にたまふことなかれ。

 

 戦争は武力による国家間の闘争ですが、日露戦争は日本とロシア帝国の間の戦争でした。ロシアが朝鮮北部に基地をつくり始めると、イギリスと軍事同盟を結ぶことができた日本の世論は主戦論一辺倒に傾き、反戦論は影を潜めます。それでも、内村鑑三キリスト教の人道的立場から、幸徳秋水堺利彦社会主義の立場から戦争に反対しました。与謝野晶子も文芸誌『明星』に反戦詩「君死にたまふことなかれ」を発表しました。

 幸徳、堺らは1904年3月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張しました。戦争はおよそ1年で終結します。ロシアでは1905年1月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大し、革命の火を消すために講和が不可欠になったからです。

 晶子の二歳下の弟、二人が生まれた老舗の菓子屋、前年に死去した父、弟の妻と子供等々が詩の背景にあります。詩は一段から二段へと気持ちが高揚し、三段を経て鎮静化していきます。この詩を批判した大町桂月は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也」(『太陽』(明治37年、10月)と述べ、晶子を批判しています。晶子はこの批判に対して「ひらきぶみ」を書き、反論しています。そこでは社会主義天皇批判とは無関係の私情の文学的な表現だと主張しました。それでも、その詩は「家を国より上に置く」と言う意味での反戦詩です。

 戦争は国と国の喧嘩ですが、実際に戦うのは兵士個人。家や家族の大切さを詠んだ晶子は国と家の対立の中で自らの感情を表現しています。今の人なら、国と家ではなく、国と個人の対の中で反戦を考え、気持ちを表現する筈です。民主主義や自由がどのような文脈で考えられるかはとても重要です。

 戦争は兵士が戦い、その兵士は男性だというのがかつての常識でした。男女平等が普通の現在では、戦争に対する男女の役割は随分と変化しています。平等主義は男女だけでなく、宗教、民族にも及び、戦争に対する人の立場がより意識化されるようになりました。

 晶子は尊王主義者で、天皇を詩の三段で引き合いに出していて、それが他の反戦論者とは異なる点です。

 トルストイ日露戦争への反対を表明したことに晶子が触発されたことは否めませんが、日露戦争時にはまだ反戦表明に対して寛容で、これがその後は急速に変わって行きます。その意味では晶子の反戦詩は「女性が出征した弟の身を案じる」ものとして受け取られたのだと推測できます(**)。出征した兵士に対して、その母や妻、恋人が生きて帰ってほしいと願う気持が強く、それを素直に表出している晶子の詩はこの時期だからこそ許されたもので、時代が下ると世情はすっかり変わり、国や軍の権力が圧倒的に強くなり、反戦主張は許されなくなっていきます。

 かつてロシアと戦う中で反戦を表現した晶子の詩に今ロシアと戦うウクライナの人々はどのような反応を示すのか、とても知りたいと思うのは私だけではない筈です。

**肝っ玉をもち、浪漫主義的な感情表現を駆使した晶子の詩の内容は、私の中では夜中にお百度参りをしてきた女性の気持ちとなぜか重なってしまうのです。