Modification

 谷崎潤一郎の『刺青』は入れ墨の持つそれまで十分に表現されていなかった側面を見事に表現して見せたのだが、今世紀の入れ墨の役割はそれとは明らかに異なり、オリ・パラで見せつけられた入れ墨の洪水に多くの日本人が戸惑い、その意味は何かを改めて問い直さざるを得なくなっている。入れ墨の歴史的、社会的な意味を保存してきた保守的な日本社会は谷崎の耽美的な入れ墨の役割を許容しても、現在の入れ墨の役割に対しては戸惑いが先に立ち、どう対処すべきかの答えに窮しているように思われる。それを裏付けるかのように、オリ・パラでのタトゥーに対して、それらを紹介する程度で、明確な議論が出てきておらず、そのことが日本社会の戸惑いを如実に示している。

 恐らく、オリ・パラ選手や有力なプロスポーツ選手に共通する基本的な概念はBody Modificationと呼ばれる身体改造にあり、それを代表するのがタトゥーとピアスである。そして、そこに具体化されている心身の改造、改変、変容の具体的手段の装飾的で、些細なものがタトゥーやピアスなのである。スポーツ選手は練習によって身体を鍛えるが、それを補助的に支えるのがタトゥーやピアスで、ライオンのたてがみのように、自らを強く、大きく見せる装飾装置となっている。

 スポーツの普及、ダイエットによる心身の健康保持、美容整形も含めた身体改造は21世紀のブームの一つであり、心身への関心の高まりは他の世紀を遥かに凌駕している。医療の飛躍的な進展もそれに拍車をかけ、Sex Rearrangementさえ夢物語ではなくなり、知識による心身への侵略、介入が容赦なく進行している。

 心身を自ら変えることは積極的な生活スタイルだと考えるなら、革新的で能動的な服装をすること、身体を積極的に鍛えること、身体に自発的に手を加え、生活様式を革新することなどは多くの人に抵抗なく受け入れられるという風潮が出来上がっている。その具体例がファッションや化粧の一つとしてのタトゥーやピアスなのである。

 タトゥーに対する日本の反応は西欧とは異なり、20世紀までの日本的なタトゥー概念が現在のタトゥー概念にあちこちで衝突している。これはピアスとは随分と異なり、文化の差と呼ばれるものなのだろう。日本におけるピアスの歴史はタトゥーの歴史に比べれば、貧弱この上なく、ピアスには日本特有の戸惑いはない。

 さらに、年代だけでなく、地域差も相当にあるのではないかと推測されるが、それは私にはまるで分らない。私と同世代の人たちがオリ・パラの選手たちの身体に刻まれたタトゥーの洪水にどのような反応を示すのか、それがわからないのである。谷崎の『刺青』が記憶に彫り込まれた私には今のスポーツ選手の身体に彫られたタトゥーを理解しようとすると、タトゥーに関するパラダイムシフトが必要で、その手掛かりがBody Modificationだと推測するのだが…面倒なBody Paintingや化粧に比べれば、一度彫れば消えないタトゥーの方がずっと手軽ということなのか。だが、私には「一度彫れば消えない」ことが便利ということがなかなか受け入れられないのである。