戦国大名たちの神仏習合

武田信玄菩提寺臨済宗恵林寺上杉謙信菩提寺曹洞宗林泉寺で、いずれも武将に好まれた禅宗の寺院です。鎧兜に神を勧請し、軍旗には神号を記すのが普通でしたが、上杉謙信の「毘」、武田信玄の「南無諏訪南宮法性上下大明神」がその例で、徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」は仏教思想の表明です。信玄は諏訪明神を信仰し、合戦の度に諏訪大社で戦勝祈願を行いました。謙信は自らを毘沙門天の化身と信じ、生涯毘沙門天を信奉し、「毘」の軍旗を用いました。また、浄土宗に帰依していた家康は、「厭離穢土欣求浄土(おんり(えんり)えど ごんぐじょうど、穢れた娑婆世界を厭い離れて、極楽浄土に生まれたいという願い)」を軍旗に記しました。

毘沙門天は仏教の護法神で、もとは暗黒界の悪霊の主でしたが、ヒンズー教で福徳をつかさどる神になりました。それが仏教に取り入れられて、北方を護る善神となり「多聞天」とも呼ばれます。日本では、毘沙門天に対して武将からの信仰が厚く、謙信が旗印とした「毘」は、軍神としての信仰とともに、「北方鎮護」を意図していました。

このようなことからわかるのは、武将たちは仏と神祇の違いを重視していなかったことです。両者を「神仏」とまとめて考えていたことからもわかるように、彼らには仏と神祇の違いはありませんでした。例えば、飯綱権現は謙信の領地内に飯縄山が発祥と言われる神仏習合の神で、戦勝の神として多くの武将に信仰されました。謙信のライバル信玄は、戦の時にはいつも飯綱権現の小さな像を懐の中に入れて、守護神としていたと言われています。

こうして、「苦しい時の神頼み」ではなく、「苦しい時の神仏頼み」が庶民だけでなく、大名たちの間でも行われていたことがよくわかります。