二つの見方

 少々大袈裟ですが、<宗教-民俗学アリストテレス>と<科学-進化論-ダーウィン>という組み合わせについて考えてみましょう。何とも奇妙な組み合わせに面食らう人がいる筈です。「変わらない本質」と「変わる変異」と簡単に対比してもよいでしょう。

 老人たちが懐かしく思い出す故郷は風景も人情も子供の頃の不変のもの、つまり昔から続く(持続可能な)ものであり、そこにこそ本質があるというのが前者の組み合わせであり、常に変化し、生存に有利なように変化するために科学的な知識が使われ、世界は常に変わり続けているという組み合わせが後者です。明確な対比になっていて、私たちがよく経験するのは宗教と科学の対立です。伝統や習慣を保持することと新しいものやシステムの導入とは普通は激しい摩擦を引き起こし、何度も戦争を勃発させるほどの事態が生じたというのがこれまでの歴史でした。

 日本固有の世界観を復古するのが神道の目的ですが、他の宗教も保守的で、自らの教義を自由に変えることはまずありません。ですから、日本の神仏習合は不思議な現象ということになりますが、実際は神道に確たる教義がなかったからに過ぎません。宗教は教義が絶対に正しくなければなりませんが、それに対して科学は仮説的であり、常に更新され続ける実証的な活動です。ですから、宗教と科学の習合は論理的に不可能なのです。

 柳田国男折口信夫民俗学が明らかにしたのは今様の言葉で表現すれば、持続可能な「家」や「部族」の固有の文化や習俗であり、特に微かに残る日本固有の文化や習俗が民俗学の対象となりました。日本固有の文化は私たちの心のふるさとの文化であり、変わらずに持続し続ける神々を含む生活世界です。私たちは故郷の神、民俗学的な神、持続可能な本質をもつ神を多層的に維持しながら、科学的な知識や技術によって故郷を変化させ、活性化したいとも思っています。ここには深い矛盾が潜んでいる筈ですが、それが問題視されることはまずありませんでした。

 持続可能な故郷は古き文化に満ちた故郷というのが民俗学的な説明ですが、故郷の再開発、再活性化には科学や技術を利用した町づくりが不可欠です。故郷は科学的には変わるべきものであり、変わり続けなければ、消滅してしまう、というのが一方の組み合わせの帰結です。ですから、古き文化や習俗の維持と科学や技術の導入とはどこかで必ずや衝突する筈なのです。

 では、私たち自身はいずれの故郷を望むのでしょうか。むろん、多くの人は二つの故郷像、二つの世界観は両立可能だと思っています。でも、私はそこには矛盾があると確信しています。持続可能で、不変の故郷を思い出し、懐かしむことと現在の故郷の発展を夢見ることとはそう簡単には調停できないものを含んでいるのです。そこには対立や衝突が必ずあり、二つの組み合わせの習合は神仏習合のようにはうまくいきません。それでも私たちは何とかそれを繋ぎ合わせてやってきたのもまた事実です。