穢れ(けがれ)

 「天国と地獄」に似て、「浄土(じょうど)と穢土(えど)」は仏教でも神道でも際立って違った世界と思われてきました。「厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)」は浄土教の用語で、欣求浄土(ごんぐじょうど)と対で使われると、徳川家康の旗印を思い出す人も多い筈です。厭離穢土はこの娑婆世界を「穢れた国土」として、それを厭い離れるという意味であり、極楽は清浄な国土ですから、そこへの往生を切望するというのが「欣求浄土」の意味です。厭離穢土の語源は、源信の『往生要集』冒頭の章名に由来し、浄土教思想の基本的特徴を表現しています。

 穢れ(汚れ)は忌まわしく思われる不浄な状態を指しています。穢れは死、疫病、性交などによって生じ、共同体に危険をもたらすため、避けるべきものと考えられていました。神道では「罪穢れ」のように罪と穢れを同じように考えます。

 神道でも仏教でも穢れを問題にするのですが、神道では死や血を穢れとしますが、仏教では死は穢れではありません。葬式は寺で行うのが仏教では普通のことですが、神道では神域たる神社では決して行いません。これは神聖なものがなんであるかの違いであり、神道では死は成仏ではなく、穢れなのです。神道では、穢れは「気枯れ」、つまり「生命力の枯渇」のこととされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられており、「心の平静を保てなくするような事象」はその「気枯れ」につながると考えられたために、死が穢れたものとされたのです。仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様であり、これを否定するような概念は存在しません。

 死によって生じた穢れは重視され、『日本書紀』には、イザナギが死んだ妻イザナミを追い黄泉国に行きますが、体が腐敗しウジにたかられた妻の姿を見て逃げ帰ってきて、「穢れた国に行ったので禊をしよう」と身に付けた衣服を投げ捨て、海水にもぐって身をすすいだことが記されています。人の死によって、新たな不幸や不運を招く「魔もの」に憑かれやすくなると信じられていました。

 穢れを忌み嫌うことは古代の日本人の特徴として民俗学的に抽出され、それが神道の根幹にあることが示されてきました。家を単位に、祖先を崇拝し、守るという姿勢は今様には持続可能な思想の具体化であり、民俗学的な知や信が科学的な知や信と際立って異なることを示しています。新しいものへの好奇心は攻める形に、古いものへの保守心は守る形として好対照で、それは穢れと健康や病気との関係にもつながっています。

 穢れに関連する用語として「ハレ」と「ケ」があります。人の死は「ケガレ」で、それに接すると穢れが身につくのですが、その穢れの反対がハレです。晴れ着のハレです。ケガレでもハレでもない日常の状態がケです。しかし、研究者の間でこれらの相互関係については議論の隔たりが大きく、どのような関係かは現在もよくわかっていません。