北里柴三郎

 毎年1月10日慶應義塾では福澤諭吉の誕生日を祝っているが、今年は塾内関係者に限定され、名刺交換会は中止。会にはいつも福澤家と並んで北里家の関係者も招かれていて、両家の深い関係が窺える。

 嘉永6(1853)年、北里柴三郎熊本県阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。幼少期の北里は武芸を好み、軍人になりたいと考えていたようである。1871年に父親の勧めで熊本の古城医学所(現熊本大学医学部)で学ぶことになり、そこでオランダ人教師マンスフェルトと出会う。オランダ語がよくでき、彼の通訳となった北里にマンスフェルトは医学の面白さを説いた。北里は顕微鏡で拡大された身体組織を見て感激し、医学を学ぶ決心を固めた。マンスフェルトの勧めで、1874年東京医学校(現東京大学医学部)に進学。当時の校長は長与専斎で、緒方洪庵適塾出身で、福澤諭吉は長与の先輩で、親友だった。

 1883年に東京医学校卒業後、内務省衛生局に就職、2年後の1885年ドイツへの官費留学を命じられる。ドイツではローベルト・コッホに師事し、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを使った「免疫血清療法」を開発し、世界的名声を得る。

 内務省は国立の伝染病研究所を設立する準備を進めていたが、既述の「脚気菌」騒動があり、北里の上司だった長与専斎は福澤に相談。福澤は私立の伝染病研究所の設立と援助を約束し、同年に伝染病研究所が設立された。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳。二人の親交はそれ以来続くことになる。

 福澤の死後、慶應義塾は創立60年を期して、北里の協力のもとに大学部に医学科新設を計画。北里は1917年に開設された医学科の学科長(後の医学部長)に迎えられ、1928(昭和3)年まで医学部長を務め、その後も顧問として、慶應義塾大学医学部を支えた。1937年には北里記念医学図書館が誕生。その図書館の入口には北里の胸像がある。