「同じもの」の識別:古典的な原子論と非古典的な原子論

 私たちの周りには規格化された大量生産の製品が満ち溢れています。大量生産される商品にはすべてが同じ品質を維持するよう厳しい基準が設けられていて、でき上がったものは一見区別がつきません。でも、「世の中には全く同じものは二つと無い」ということもまた事実と見做されていて、詳しく見れば、どんなに似ているものでも必ず判別がつくはずだと信じられています。同じように見えるものでも、望遠鏡や顕微鏡を使って詳細に観察すれば違いがあるに違いない、と私たちは思っています。同じに見えても、よく調べれば似ているに過ぎないと考えています。ところが、世の中にはどうやっても区別がつかないものが存在します。それも、とてもたくさん。
 ギリシャ時代以来、世界が何種類かの原子からできていると言われるとき、そこで考えられた同種の原子はまったく区別のつかない同じものだということになっていました。この原子論を受け入れた近代人は次のように考えました。原子同士はまったく同じものなのですが、それが無数に集まってできた個々の物体は、まったく同じだけの原子がまったく同じように並んでいるはずがなく、皆微妙に違っている筈です。したがって、物体を構成する原子は同じでも、その個数や配列が異なっていて、「世の中には全く同じものは二つと無い」ということになるのです。もう一度強調しておきましょう。原子を認めることは、世の中に全く同じものがたくさんあることを認めることです。
 でも、ギリシャの原子論と量子論以後の現代の原子論の間にはひとつの大きな違いがあります。ラボアジェやアヴォガドロの原子論は空想ではなく、科学的根拠をもとに主張されたという点ではギリシャの原子論とはまるで違うのですが、そこで想定されている原子の特性はギリシャのものと違いはありません。いずれもいくつかの種類の元素があり、その元素は同じ性質を持った粒です。同じ元素はパチンコ球やピンポン球とは違って、二つあったならそれらを物理的に区別することはできません。でも、区別ができないといっても、片方をA、他方をBと名づければ、印こそつけられませんが、AはあくまでAであり、BはあくまでBで、名前は違っています。つまり、名前をつけることによって同じ二つの原子を識別できるのです。ところが、量子論の原子はそうはいきません。ABと違う名前をつけることがそもそもできないのです。
 上記のことを繰り返せば、同じものでも、別の名前をつけて識別できるのがギリシャ以来の原子論の原子、同じものであっても、別の名前をつけて識別することさえできないのが量子論の原子、ということです。禅問答のようですが、それは次のようなことを考えてみるとわかります。箱の中に二つの同じ種類の粒子を入れておきます。例えば、ヘリウム原子を二つ入れておきます。この箱の真ん中に勝手に仕切りを入れたとき、左側と右側にはいくつの粒子が見つかるでしょうか。何度も何度も試して、その結果からどうなるかという確率を調べることができます。もし原子が一つだったら、左に見つかる確率が1/2、右に見つかる確率が1/2です。
 二つがギリシャの原子論の原子だったら、右の箱に二つ見つける確率が1/4、左に二つ見つける確率が1/4、右と左に一つずつ見つける確率が1/2 になります。その理由は、それぞれの原子が右と左に行く確率が半々なら、左と右への分け方は、AB|—、A|BB|A、—|AB の4通りが区別できますから、1個ずつになる確率が左に2個入る確率の倍になります。なぜなら、二つの原子は物理的には同じでも、私たちは二つを識別できると考えるからです。
 ところが、ヘリウム原子で同じことをするとそれぞれが起こる確率がすべて等しく1/3 になります。これは場合の数を数えるときにA|BB|A が識別できず一通りになることを意味しています。厳格に二つの原子が同じで、識別することさえできないのであれば、このように確率を与えるしかありません。
 同様に、左と右から来た二つの電子がぶつかって、また離れていったとき、ギリシャ原子論の原子とは違って、どちらの電子がどちらに行ったのかを区別することができないのです。量子論の世界では、電子、陽子、中性子、原子といった粒子は、粒々というよりはむしろ電光掲示板(あるいは、パソコンのディスプレイ)のように空間の各点のいろいろな色の状態と思ったほうがよいのです(こういうものを物理学では「場」と呼んでいます)。同じ色が光って動いていけば、二つの点が隣に来てまた離れていったとき、どちらがどちらなのか区別できないのと同じなのです。