新型コロナウイルスを知ること

 自分が知識をつくる場合の典型が研究活動。その活動は行為であり、その研究行為によって知識が産み出される。「行為としての知ること」が知識を産み出すことにつながっている。ところが、人から教えられる知識もあり、それは情報伝達であり、受け身の行為として知ることが情報受け取りの特徴。私たちの多くは教育によって知ることから知識と付き合い始めてきた。知識の産出と情報入手の間の違いはまだわからないことが多い。だが、未知のものを既知にする行為と、既知のものを知るだけの行為は明らかに異なっている。確かに、誰にも未知のものを私が知ることと既に知られているものを私が知ることとの間には大きな違いがある。

 新型コロナウイルスについての知識、新型コロナウイルス感染症についての知識は不完全、不十分、相対的で、それを極端に表現すれば、「偏見」と言うことさえできる。つまり、部分的で、不完全な知識は不十分なだけでなく、偏った知識でもあり、それがさらなる偏見を生む元凶になっている。

 部分知が偏見であることを示す簡単な論証がある。

(1)コロナは恐ろしくない。

(2)コロナ撲滅が最重要。

上の二つのカジュアルな言明をより正確に表現することもできるが、それらを使う人々の気持ちはこれで十分うまく表現されているだろう。(1)と(2)は互いに反するため、今でも世界中で議論が絶えない。そのためか、政治家の立場を色分けするのに使われてきた。経済優先か、医療優先か、という二者択一の問題設定も(1)と(2)の別表現と考えることができる。いずれの立場も部分的なコロナ知識から推論として得られるものである。これは何を意味しているのか。(1)と(2)が新型コロナウイルスとその感染症から導き出されること自体が、コロナの部分知が矛盾したものを含むことを意味している。それゆえ、部分知自体が偏見で、相反する言明を含み、その整合的でない偏見が(1)や(2)の偏見を導出していることになる。

 さらに、新型コロナウイルス感染者への偏見も新型コロナウイルスへの部分知から生まれている。過去の感染症の場合と同じように、感染症に関する偏見は新型コロナウイルスについての整合的でない言明の集まりから生まれている。インフルエンザのようなものと言われながら、人々は新型コロナウイルス感染者を嫌悪するのである。

 新型コロナウイルスとその感染症についての知と無知の分布については誰も知らない。何がわかっていて、何がわかっておらず、部分知から全体知を推測することはまだ覚束ない。今の相対知は僅かな新知識の獲得で大きく変化する。その上、新型コロナウイルスの知識と他の知識との関係もよくわからず、しかもそれは刻一刻と変化している。そうなると、私たちができることは限られてきて、試行錯誤による対応が重要視されてくる。さらに、「知は力」、「知的な戦い」、「知識という武器」といった考えが多くの人を惹きつけ、医療と政治の優先問題などが人々の関心を呼ぶことになる。だが、経験的な文脈での知識の本性を知れば、無用な論争に少しは冷静な態度をとる余裕が生まれるのではないだろうか。