解くべき問題と解くことができる問題

 科学、そして医学の問題は、好奇心を掻き立てる問題であり、純粋に答えを知りたい問題です。新型コロナウイルスの正体をより詳しく知り、ワクチンや薬を開発することが医科学の問題で、これは正に解くべき問題です。しかし、疫学や公衆衛生学となると、解くことができるにもかかわらず、それを実行することが難しく、解かれていない問題がたくさん含まれています。政治や経済の問題は知的好奇心だけでなく、欲や得が絡んだ問題が圧倒的に多く、それと同様に疫学、感染症学、公衆衛生学なども政治や経済の文脈に巻き込まれ、同じような問題に直面しています。そもそも医療とは政治や経済抜きには扱えない事柄です。ですから、今回の新型コロナウイルスの流行は科学的な知識と政治経済的な問題の両側面から扱う必要があり、どうしても政治経済的な問題が中心となってきたことは否めません。では、科学と政治経済の間はどのように繋がっているのか、その僅かな例を見てみましょう。

 昨日紹介した文献のなかで、

西浦博、稲葉寿「感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題」、『統計数理』第5巻2号、461-80、2006、

稲葉寿「基本再生産数・タイプ別再生産数・状態別再生産数 The basic reproduction number, the type-reproduction number and the state-reproduction number」、『数理解析研究所講究録』第1653巻、4-9、2009、

などは解決すべき知的な問題を扱っているように見えます。確かに典型的なアカデミックな論文です。しかし、それだけでなく、扱われている数理モデルは私たち自身の行動の規制や自粛を含み、様々な対策を含んだシミュレーションができるモデルになっている点で、目標実現の政策を実行することに使うことができるようになっています。つまり、一般的な理論ではなく、具体的なモデルなのです。そして、私たちとは独立した科学知識ではなく、医療政策や私たちの日常行動が取り込まれたモデルとして、知識と政治経済政策との中間にあって、両者をつなぐものなのです。そして、今回の感染症の問題はこの両者をつなぐモデルを出発点にして様々な議論が始まっているのです。

 さて、昨日の新型コロナクラスター対策専門家Twitterによれば、「倍加時間(doubling time)」とは累積感染者数が2倍になるまでにかかる時間のこと。流行状況を把握する一つの指標で、倍増時間も同じ意味で使われている。では、「倍加時間」と「倍化時間」のどちらが正しいのか。これまで専門家会議の資料等では『倍化時間』と記述されていますが、一般的には『倍加時間』が多く使用されているということもあり、今後は『倍加時間』で統一するとのこと。このような問題は単なる言葉遣いの問題で、私たちが科学知識とは別に解ける問題の典型例です。言葉遣いは科学知識とは独立した問題で、交通整理で済む場合がほとんどですが、次の例は少々厄介になります。とはいえ、それさえ言葉遣いに過ぎないのです。4月23日にベニバスモモというタイトルで載せた記事を思い出して下さい。そこでは次のように述べられていました。

 「桜が咲いていると思ったら、スモモの花。花と同時に出る葉が赤みがかっているのでこの名が付いたのであろう。別名をアカバスモモ、アカバザクラとも言う。花は白いが、葉が赤いので、遠目にはピンクの花が咲いているように見える。3月中頃から咲き始める。だから、画像は数週間前のものである。サクラに比べると花はやや疎らで小さく、頼りなげであるが、実の方はサクラより大きく、黄色く熟したものは食用になる。中国から古くに渡来した。ベニバスモモ(紅葉李)は、西南アジア原産でバラ科スモモ属の落葉広葉小高木。画像はベニバスモモ・システナという園芸種。」

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 ところが、次のようなことが起こったのです。園芸店で紅葉スモモのタグがついた苗木を買い、そのすぐ後に偶然ネットで目にしたのが「プルヌス・ヴァージニアナ」。何でも芽吹きのときは緑色の葉が夏にかけ紅色に変わっていくとあり、特徴は赤銅色の葉で、この葉は新葉では緑色で、次第に赤く色づいていくのです。ところが、ベニバスモモ・システナはバラ科サクラ属で、落葉低木。花は「山桜」によく似ていますが、花期は「山桜」よりかなり早く、花の中心部分は濃いピンク色になっています。葉っぱの色は花が咲いているときも、また、花が終わったあともずっと赤茶色で濃いままで残ります。

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 何とも混乱する文章の寄せ集めなのですが、明らかに二つの異なる樹木が述べられています。これは画像を見れば一目瞭然。それゆえ、これも知的好奇心を焚きつける問題ではなく、命名と特定化することの問題に過ぎず、交通整理すれば済んでしまう問題です。コロナ対策で毎日問題になる事柄は、解ける問題に過ぎません。欲得を忘れるなら、私心を横に置くなら、解決できる問題に過ぎないのです。でも、そこが人の悲しいところで、自らの立場を忘れることができません。そのためか、命を救おうとする医療行為だけが「私を忘れた行為」として目立つのです。私たちは、大抵の場合救命の医療行為を政治経済の文脈ではなく、科学技術の文脈で考えているのです。しかし、感染症対策という総合的な行為は政治経済の文脈でしか考えることができず、それゆえ、解ける問題を解けないかのように見せてきたのです。原爆の廃棄は解ける問題です。解けないようにしているのは私たちの欲得であり、それに基づく政治経済です。自業自得なのですが、それは地球環境の破壊についても基本的に同じです。解ける問題を解けなくしているのは私たちなのです。

 PCR検査、医療機関の崩壊、医療関係者の感染危険等は解けない科学的問題ではなく、解ける問題なのです。というのも、それらは私たちが新型コロナウイルスへの感染を防ぐために考え出した事柄で、私たちがつくる出した問題に過ぎないからです。自分がつくった問題は自分で解決するのが当たり前で、外から襲ってきた問題、例えば天変地異ではないのです。外からの災害と考えることもできる感染症は、天災であると同時に、多くの人災も引き起こします。それら問題を解決処理することが人災を防ぐことなのです。

 私がこれまで述べてきたことをまとめてみましょう。日本は新型コロナウイルス感染症に対して開発途上国であること。それは、検査体制が不十分、医療体制が不十分、それらを統括する組織が脆弱であることから明瞭です。そして何より、リーダーたちが誰も積極的にコミットせず、そのため現場だけが窮する事態が続いています。

 「検査の充実と隔離の徹底」がWHOの基本姿勢で、WHO上級顧問の渋谷健司氏はそれをそのまま適用して、日本が不十分だと批判し続けるのですが、これを実行してきたヨーロッパ諸国は軒並みうまくいきませんでした。世界標準と言われる「検査の充実と隔離の徹底」は自明の真理のように見えるのですが、これがアフリカで実行できるとはなかなか思えません。これは解くことができる問題なのですが、開発途上国の日本ではどのように実現したらいいのか、誰も具体策を提案しません。今でも日本感染症学会などはPCR検査をむやみに拡大することに反対しています。一方、山中、本庶両先生はPCR検査の徹底を主張しています。専門家会議は連休明けの日本の戦略として「検査の充実と隔離の徹底」という世界基準と信じられていることに従うのか、それとも日本独自のスローガンを掲げて対応するのか、まるで見えてこないのです。今のところわかっているのは8割削減と医師会が始めたローカルな発熱外来の新体制くらいで、政治家は今になっても誰もイニシアティブをとりません。首相からも厚労大臣からも何も聞こえてきません。今の毎日が、私たちが作り出した、解決できる問題を解決しないままに、堂々巡りしているだけに見えるのは私だけではない筈です。