新型コロナウイルス感染症についての老人の杞憂

 感染症の対策で重要なのは、感染しない、感染させないこと。感染者は時間の経過で、免疫が働き、ウイルスが駆逐され、回復し、ウイルスは感染力を失う。また、感染者が亡くなっても感染力を失う。だが、感染すると、別の感染者を生み出す危険がある。既に何度も述べてきたが、1人の感染者が平均何人にうつすかがR0(基本再生産数)で、私たちが自らの力で変えることができるのが実効再生産数R=(1-eR0人口論から「再生産」が使われているが、基本再感染数、実効再感染数の方が合っている)。R0はウイルスの種類によって異なる。Rが1より大きければ大きいほど、感染者の数は時間とともにより大きくなる。1より小さければ、感染は時間とともに終息。上の簡単な式は、eの値を私たちが操作できるなら、Rの値を1より小さくできることを示している。免疫をもてば感染しないし、社会から感染者を隔離する、人々の交流を制限するなら、やはり感染の防止ができ、eを工夫することによって、R<1を様々に実現できる。

 新型コロナウイルスのワクチンはまだない。となれば、eの工夫は隔離ということになるのだが、この隔離の程度、按配が私たちの欲求や行動を考慮しなければならず、とても厄介なのである。隔離方法は当然経済活動とも結びついている。中国のように都市の完全封鎖による隔離から、自然免疫の獲得まで待つというほぼ無策まで様々な方策が考えられる。新型コロナに合わせた感染症数理モデルを作り、微分方程式をコンピューターで数値解析したり、感染した人口がどんなパターンで再生産されていくかがシミュレートできる。あるいは、感染状況に合わせて、感染者の隔離や学校閉鎖の効果を計算できる。そのためにもeの値は重要になってくる。

 上で隔離と呼んだものは、抑え込み(あるいは、抑制suppression)、緩和(mitigation)の二つに分けることできる。緩和と抑え込みを対照的に比較すれば、「緩和策は新型コロナウイルスの拡散を遅らせることを目指し、抑え込み策は拡散を逆転させ、縮小して、終には終息させる」となる。
(1)抑え込み:Rを1未満にすれば、感染者数が減る。新型コロナウイルスの場合,ワクチンが使えるようになるまでまだ1年以上かかり、個人の自由や権利を制約し、都市や国全体を封鎖することを続けなければならない。

(2)緩和:2009年のパンデミックの時,ワクチンは重症化しやすい基礎疾患がある人を対象にしていた。ある程度集団免疫がつくと、急速に患者数と伝播が低い水準に落ちる。

 抑え込みと緩和の差は程度の差であり、抑え込みを緩めて行けば緩和に変わるし、その逆もあり得る。一時的な抑え込みで成功すればするほど、集団免疫の蓄積が少なくなるため、ワクチン接種がない場合、後の流行が大きくなると予測される。緩和戦略と抑え込み戦略のそれぞれの効果を予測するための複雑なモデルを作成すると、どちらの戦略も何もしないよりもはるかに優れていることがわかる。効果的な抑え込みのための最小の方針は、家の隔離と学校の閉鎖とを組み合わせた人口全体の社会的距離である。だが、これは最小の抑え込みで、状況に応じて抑え込みのオンとオフを切り替える必要がある。指標となる数値が閾値を超えると、「オン」になり、おさまると「オフ」となる。これは都道府県ごとの集中治療を必要とする人々の数に応じて変更することになる。

 最初に「集団免疫」という緩和策を打ち出したイギリス政府に、「方向転換するか、さもなくば25万人が死ぬか」だと研究者たちが警告し、イギリス政府は抑え込み策に転じた。東京では連休後感染者が増え、しかもリンクのわからない人が増えたため、より強い抑え込み策が求められている。

 最後に苦言。「自粛」も「要請」も都合のいい語彙。権限を持つ政府が要請を繰り返し、「自分から行いや態度を慎むこと」を強く求める、お願いすることは、「自発性の強要」という形容矛盾の不思議なものでしかない。だから、「自粛要請」の使用自粛を要請することは私たちの権利だと法学者なら言う筈である。だが、これでは木に鼻をくくるようなもので、自粛もself-control、self-restraint、voluntary banと、自発性の意味合いが異なる。それに応じて、禁止、中止、要求する等の表現を考える必要がある。「「…の可能性がある」から自粛を強く要請する」というのも耐え難い表現。可能性がある程度なら、強く要請する理由は何なのか、と問われて、それに答えられる用意が不可欠。