禁色(きんじき)と聴色(ゆるしいろ)

 「色」は生活の中で遣い分けられ、物理的にも心理的にも生活に彩りを与えてきた。かつては禁色や聴色が決められていて、自由に色を楽しむことができなかった。今では聴色となった男色もかつては許されず、それゆえ、三島は「禁色」を小説のタイトルに選んだ。

 禁色は律令制の時代に遡る。位によって衣服の色(袍の色)が決められ、他の位の人は着ることが許されなかった色が禁色。禁色に対して、誰でも着ることが許された色は聴色。代表的な禁色は、聖徳太子が定めた「冠位十二階」の色である。最高位の人が着るのは、「濃紫(こき)」という濃く深い紫。下位の色は「黒」で、中でも薄黒という薄い黒が最下位の色だった。色を濃く染めるには染料がたくさん必要で、薄い色は位の低い人が着る色となった。絶対に着ることが許されない「絶対禁色」が、天皇の袍の色黄櫨染(こうろぜん)」と、皇太子の袍の色「黄丹(おうに)」。

 例えば、女性なら美しい紅に憧れだろうが、庶民に許されたのは、染料である紅花一斤(約600g)で絹一疋(きぬいっぴき=和服地二反)を染めたときの「一斤染」(いっこんぞめ)という色。桜色よりもっと薄い色で、これ以上濃い色を着ることは許されなかった。だから、聴色は、紅花で染められた淡い紅色。紅花は大変高価な染料であり、色が濃くなるほど高額だった。ただ、聴色とされた色でも、徐々に色が濃くなる傾向があり、後年は聴色の限界を越えた濃い紅色になっていく。

 江戸時代には「四十八茶、百鼠」という言葉が生まれるほど、茶や鼠色が豊富に流行した。歌舞伎役者の名前をつけた「団十郎茶」「璃寛茶」(りかんちゃ)「路考茶」(ろこうちゃ)「芝翫茶」(しかんちゃ)など70以上もの茶があり、「梅鼠」(うめねず)「藤鼠」(ふじねず)「銀鼠」(ぎんねず)など、各色相の鼠色がある。三代将軍徳川家光は、参勤交代を義務付けたり、鎖国制度を完成させたりと、幕府の封建体制を完成させ、その権威を強固なものにした立役者である。そして、身分制度を動かぬものにするために、様々な施策を打ち出す。特に農民には、服装にまで厳格な基準を設け、自分の「身の程」というものをわきまえさせた。1628(寛永5)年、農民には「木綿」と「麻」以外の素材のキモノを着ることを禁止する達しが出される。「絹」を贅沢品と決めつけたのだ。その後キモノだけではなく、帯や半襟にも絹使用を禁止した法令が追加される。そして、色も高貴な色とされてきた紫や、黄櫨色に近い紅色や梅色などの色を禁止した。この法令は、江戸後期の天明期・末期の天保期など度々出されており、幕府は怠りなく農民を締め付けた。このことからも、徳川家康の「百姓は生かさぬように、殺さぬように」という農民への姿勢が、260年の幕府の体制化の中で忠実に守り続けられていたことがよくわかる。このような規制は、農民だけでなく一般の町人にも波及する。犬公方と呼ばれた5代綱吉の時代に取り決められた1683(天和3)年の法令は、奢侈禁止令の中でも極めつけの悪法だった。これ以前の1643(寛永20)年にはすでに、農民同様に町人の内儀(奥方)や娘のキモノの色に紫や紅梅色を使うことを禁じていたが、驚くことに天和の法令では、柄そのものにも規制がかけられたのだ。

 ところで、白と黒は無彩色、あるいはモノクローム。そして、灰色も無彩色。無彩色は明度だけをもち、彩度と色相がない。白と黒の量によって、暗い灰色から明るい灰色の段階が得られる。光学的に白も黒も存在する。100%の黒体は存在しないが、99%の黒体の物質がカーボンナノチューブで、これは手にとって見ることができる黒色。白も、白色光というかたちで存在する。目に見える光が全て集まったら彩りが無くみえるとても明るい状態で、そこに光を乱反射させるものがあれば、人間の脳は白色だと判断する。雲や牛乳が白いのはそのため。つまり、光の三原色を全部重ねると、全ての光が乱反射して「白」。「彩りが眼にみえる色」だけが「色」ではなく、白も黒もまぎれもない「色」であり、これが今の若者には好まれている。