深川から細道へ:芭蕉の徘徊

 芭蕉は自らの俳諧を求めて徘徊し続けました。芭蕉は発句の自立としての俳諧を求め、自ら推敲を重ねるという編集方法を生み出しました。芭蕉の旅先は大都会ではなく、奥の細道にある小さな町や村落であり、人里離れた自然、荒れ野であり、その風景を求めて彼は徘徊したのです。

 芭蕉は1644年に伊賀(三重県上野市)に生まれ、江戸に出るのは31歳の時、翌年「桃青」を名乗ります。38歳、深川に居を移し、翌年には「芭蕉翁桃青」と書き、芭蕉の俳号が使われます。以後の徘徊史は次の通り。

41歳『野ざらし紀行』(東海道、伊賀、大和、尾張、木曽、甲斐)

44歳 8月曾良と宗波を伴い、『鹿島詣』参禅の師仏頂和尚、10月『笈の小文』(伊賀、伊勢、吉野、大阪、明石)

45歳『更科紀行』(更科、善光寺碓井峠)

46歳『奥の細道曾良、3月27日8月21日大垣で終了。

48歳 京都、大津、伊賀など歩き、江戸に戻る。

49歳 新築の芭蕉庵に移住。

51歳 5月に江戸をたち、伊賀、大津、京都へ、大阪に向かう途中で病、10月12日に大阪御堂筋の花屋仁右衛門方で死去

 芭蕉が何を求めていたのかを解く鍵は「旅」。上記略歴によれば、深川を旅の起点とし、約10年間旅に明け暮れる人生。深川も旅先もいずれも自然に接した生命地域です。

 延宝8年、芭蕉は江戸市中を離れて隅田川対岸の深川に移り住みます。これが最初の芭蕉庵で、この転居は俳諧全史を眺めても、まさに一大転機でした。この転機は、芭蕉西行を、そして能因を学んだことにあります。西行の「侘び」に気づきます。芭蕉俳諧は「滑稽」から「風雅」へとパラダイムシフトし、彼は卑俗を離れることを決断したのです。貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出ます。「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因と西行を想いながら、東海道の西の歌枕を訪ねます。

 野ざらしの我が身を想い、芭蕉は漂白の人生にライフワークを見つけたのです。この時、芭蕉41才。はっきりと漂白の旅で自らの命が尽きることを覚悟したのです。芭蕉は何ものにも左右されない絶対の価値を旅のなかに探しつつ、命の限り歩き続けます。芭蕉は病みながら、日本中を何かに憑かれたように歩き続けます。誰の言葉も彼の漂白への思いを止めることはできませんでした。

 『野ざらし紀行』執筆の1年後、芭蕉は深川で「古池や蛙飛こむ水の音」を詠みます。蛙はよく鳴くことから、音に結びつくが、その蛙が池に飛び込んでの音です。哲学とは存在論だというのに対し、哲学は認識論だというのに似ています。ここにはパラダイムシフトがあります。芭蕉の『おくのほそ道』とは、誰もまだ見たことのない俳諧紀行文の企てであり、新しいパラダイムの提示を狙っていました。それゆえ、このような俳諧の遊行、徘徊、漂白があると読者が感じることができれば十分でした。「月日つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、…」は芭蕉が綴った『おく(奥)のほそ(細)道』冒頭の一節。この書き出しは文体の歯切れがいいとか、名調子であるというだけでなくて、そこに芭蕉の「旅」の哲学があり、その生涯を旅に求めた結論とでも言うべき、過客の魂を述べたものなのです。

 元禄2年(1689)、芭蕉48歳、随行曽良41歳。芭蕉がみちのくへの旅を思い立ったのは、西行や能因の放浪の境涯を慕い、みちのくの歌枕を訪ねることにありました。つまり、片雲の風に誘われ、能因の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」(『後拾遺集』)といった歌心を、みちのくの空に追体験したいというのが『ほそ道』の旅の動機でした。旅は、旅する人にとって、新しい土地の風景、そこでの人との出会い、その地方の歴史への感動を眼前に展開してくれます。芭蕉の風流心がそれに大きく震動して、筆を執り、できあがったのが『おくのほそ道』です。『おくのほそ道』は、紀行文とはいっても日時や天候・旅程の正確を期して綴ったものではありません。『曾良随行日記』の記述と比較して見ていくと、随所に改変・虚構のあることがわかります。後日、筆を加え推敲を重ねた、これはむしろ創作物語なのです。

 変化する視点の中で不易のものを求め、それを使って流行のものを表現する、それには旅という不易流行の状況を生み出す設定が不可欠でした。

 

荒海や佐渡によこたふ天の河(元禄2年、46歳)

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな(病鳫の夜さむに落て旅ね哉)(元禄3年、47歳)

 

 病雁の句は『猿蓑』巻之三秋に載る。幸田露伴(『評釈猿蓑』)は次のように記しています。「晩秋のころ、遠い旅の空を列を組んで鳴きながら渡って来た雁は、夕暮れ、塒(ねぐら)の湖沼の上に来ると、急に一羽ずつ回転しながらばらばらと垂直に落下する。これが落雁で、その疲れ切ったようなドラマチックな動きには、これが自然の生態とわかっていても、見るたび何か切ない思いに駆られる。」「夜寒」に生きる、病む、のは雁も人間も同じ。そこに深い共感があるのでしょう。病雁の読みは「ビョウガン」が主流ですが、其角の『枯尾花』では、「病ム鴈(やむかり)のかた田におりて旅ね哉」と訓読しています。「荒海や」の句は叙景句に見えます。地上には押し寄せる激浪、空には無窮の彼方に大きく流れる銀河と、天と地の自然の大観を掴んでいます。でも、そのことによって自然に対比させられた人間の哀れを感じさせます。「病鳫の」の句も、病気らしい雁(かり)が、秋の夜寒に、近くに降りて旅寝をする気配を詠んだ叙景句ですが、それは病勝ちで漂泊を続ける自分の旅寝の訴えでもあります。 

 

 ここまで芭蕉俳諧と徘徊を述べてきました。私は既に小林一茶良寛について述べました。一茶は柏原に帰郷し、そこの共同体での日常生活を体験しました。良寛は村から離れた庵で自由気ままに暮らします。そんな彼らと芭蕉は随分と違っているように見えます。芭蕉にとって徘徊は俳諧のためであり、漂白の地は細き道があれば、それをどこまでも歩むものでした。

 ところで、国立公園をもつ観光地としての妙高芭蕉でなくても、多くの人たちの旅の目的地であり、北国街道や人里離れた旧跡もあります。他方、一茶や良寛が住んだような生活の場としての妙高が市民にとっての日常の妙高です。限界集落芭蕉にとっては魅力ある対象であり、旅人もその風景に惹かれます。でも、そこに住む住人が気懸りなのは風景ではなく生活そのもの。このように見ると、観光地としての妙高と生活の場としての妙高はどうも異なる性格をもっていることがはっきりわかります。一茶の見る妙高芭蕉の見る妙高、その中間の良寛妙高と並べてみると、妙高に関わるそれぞれの人が自らの立場を見直すには良い指標になるのではないでしょうか。人は我が儘なもので、芭蕉になりたい時、一茶になりたい時、良寛になりたい時と実に様々で、いずれの場合もその夢を同じ妙高で実現したいと思ってしまいます。とはいえ、妙高には旅の目的地と生活の場という、はっきり違った役割があり、その両立を考える際に表面的な両立だけではなく、芭蕉、一茶、そして良寛の生き様を参考にして、対立を少々掘り下げて思案してみてはどうでしょうか。