知るとは…、知らないとは…

子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也。(『論語』為政第二の十七)
子曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり。


Confucius said, “Zhong You, I shall teach you what is ‘knowing’. It is to admit what you know as what you know, and what you don’t know as what you don’t know. This is true ‘knowing’.”


孔子が言われるには、「仲由子路(ちゅうゆうしろ)よ、お前に 「知る」と言うことを教えよう。それは知っていることを知っていると認め、知らないことを知らないと認めることだ。これが 「知る」 と言うことである。」

 

 長々と引用し、訳まで挙げたが、つまるところ、「知る」とは知っていることを知っていると認識し、知っていないことを知っていないと認識することである

 一方、「無知の知」と要約されるソクラテスの教えは、英語でもwisdom to realize one's own ignorance, the recognition of human ignorance, an awareness of his own ignoranceなどと要約されている。この無知の知は下線を引いた孔子の教えと両立する。「知っていると認識し、知っていないと認識する」を言い換えれば、「知っていると知り、知っていないと知る」となり、そこから「知っていないことを知る」、つまり無知の知ということが導出される。

 ところで、以下の文のどれがまともな文だろうか?

 

I know that I don't know anything.

I know what I don't know.

I know that I can't see anything.

I know what I can't see.

I see that I can't see anything.

I see what I can't see.

 

知っているものやことについては、どの程度、どのように、どれだけ、いつどこで知ったかについて詳しく尋ねることができる。だが、知らないものやことについては詳しく尋ねることができない。記憶にないと言われると、それまでで、知らないものやことに気づいている、知らないということについて知っているといったことしか知ることができない。「知らない」の「知る」と「知っている」の「知る」は認識上はその内実がまるで違っていて、その情報量の違いは計り知れない。というのも、知っている場合、その背後には言及されない多くの知識が想定できるが、知らない場合、その背後にあるものも無知のベールに包まれてしまうからである。