故郷創生:三つのシナリオ案

 大人の悪だくみ、いや、実は故郷創生のスキームを三つ考えてみましょう。現実離れした話ですが、私たちが故郷創生を考える際に不可欠な基本姿勢に関するものです。人にサケのような回帰本能がきちんと備わっているなら、悪だくみなど一切必要ないのですが、人はいい加減な本能擬きしか持ち合わせていませんので、策を弄して人を騙すしかないのです。

(1)成人Aのシナリオ案
 普通の成人Aがつくったシナリオ案によれば、そのプランは思ったより素直で、罪のない悪だくみであり、今流行の悪意ある詐欺とは大違いです。故郷への郷愁を掻き立てるにはどうすればいいか、それには子供時代にうんと魅力的な妙高体験をさせればいいという他愛もない悪だくみです。その中で彼が描きたかったのは、成人後に懐かしく思い出せる妙高体験を子供時代に強制的に味わってもらおうというものです。Aが描くシナリオの中の策略を垣間見てみましょう。
 沢山の有意義な妙高体験を子供たちに重ねてもらうことによって、何十年か後に郷愁を誘う妙高の記憶として思い出されることになる筈だという希望に賭けようというのがAの目論見でした。端的に言えば、子供たちへの早期の条件付け。つまり、子供たちにくそ真面目に接し、妙高についての高品質の情報や知識を惜しむことなく与えることでした。
 小学生にはファーブルの好奇心とガレリオの探求心をもってもらうべく、妙高戸隠連山国立公園の自然や動植物を丁寧に教え、自然を見る眼を養ってもらうのです。中学生には笹ヶ峰のキャンプ、妙高山火打山への登山、高校生には関山神社や斐太の古墳群の歴史、日常世界の行事や祭りといった文化を身近なものとして知ってもらうのです。動植物を含む自然を楽しみ、その自然の中で営まれてきた社会や文化の活動をくどいほどに追体験してもらおうという訳です。
 そんな情報を刷り込まれた子供たちは、故郷を離れてもいつかはその故郷への郷愁が嵩じ、同窓会や同郷会でスイッチが入るという訳で、これがシナリオの策略。この程度なら禁じられた遊びにも入りません。そんなことよりなにより、市民は自分たちの故郷を総じて誇らしく思いながら生活でき、子供たちへの些細な悪だくみは市民全体への郷土愛の醸成につながることにもなります。
 子供たちに妙高の誇るべきものを自ら教え、体験させ、一緒に楽しむ、そんな活動を通じて子供たちが友だちを作り、妙高を知り、大人たちの活動を経験するなら、それは即妙高の遺産の維持と継承に繋がる、これがAのシナリオの抜け目のないところです。「私は今ここにいて子供たちに教えている」という紛れもない現実意識が子供たちとの共通の活動であり、それが遺産の維持、継承になり、子供たちが「いつか」、「どこか」で、「誰か」とそれを思い出し、再現することに繋がっていきます。とにかく、妙高の遺産をじっくり選定し、これは誇れる、これは残すべきというものを厳選して子供たちに丁寧に教え、残す努力をすること、そして、それを継続していく、とシナリオは続くのです。
 さらに、シナリオを追えば、妙高の誇りは「ごみを出さない国立公園」であり、そのための大人の活動を子供たちに実践的に伝え、教えることが描かれます。その活動を遺産として子供たちに残すのが大人の目的であり、誇りある遺産を子孫に伝えていくことが市民の役割と言うと少々辛気臭くなりますが、そこはシナリオの工夫によって、もっとわかりやすくなる筈です。

(2)アンチAのシナリオ案
 このようにAのシナリオの概要を見てくると、シナリオ中の「妙高」を別の町に、妙高戸隠国立公園をX城に変えるなら、他の町にも簡単に通用できる故郷創生の一般的スキームになることがわかります。自然環境、社会組織、文化伝統を子孫に伝えていくことの一端がAのシナリオだと了解すると、それを壊すことこそ子供の特権だという別のシナリオの方が魅力的だと考える人も相当数いる筈です。となれば、シナリオ合戦しかありません。では、アンチAのシナリオは故郷破壊のシナリオになるのか、シナリオを自ら書いて答えを見つけたくなるというのが自然な反応です。
 古い伝統や習慣を否定し、それに代わる別の新しい考えを打ち出すことを大袈裟に表現すれば、「革命」ということになります。このような革命は過去にどの分野にも何度も起こったことで、特段珍しい訳ではありません。ポピュラーなのは政治の世界で、始終革命が起こってきましたので、誰も驚かなくなってしまいました。政治の世界の革命を含め、革命はとても目立つ活動ということになります。
 有名な革命の例を一つだけ挙げます。それは「科学革命(scientific revolution)」と呼ばれる革命で、ガリレオから始まりニュートンで完成される古典力学の革命です。私たちが理科や物理学で習ってきたのが古典力学ですが、その古典力学が革命によって打破したのはアリストテレスの運動学でした。そのアリストテレスも師のプラトンの哲学に反対し、経験主義的な革命を起こしたのですから、正に歴史は繰り返したのでした。科学革命とは知識の急激な変更のことなのですが、知識の何がどのように変わったというのでしょうか。知識は個々の真なる言明の集まりですが、その言明の集まりが根底からすっかり入れ替わったというのが革命の成果ということになります。
 むろん、誰もこんな大規模の革命ではなく、個人の心の中での旧来のものの否定と新たなものの肯定が、さらにはそれほど明瞭でなくても新しいものへの希求がアンチAのシナリオの主題になります。アンチAのシナリオに賛成する人でも、Aのシナリオを即否定する訳ではありません。というのも、何かを継承することが私たちの生活のほとんどを占めていて、規則的な習慣がなければ私たちが生きていけないことをよく知っているからです。規則が朝令暮改では私たちは安心して生きていけないのです。
 私が学生の頃は学園紛争があちこちの大学で起き、私がいた大学でも学生と大学側が争う事態が起きました。社会の悪習、悪癖を一掃しようという若者の熱気が漲っていました。キャンパスには立て看板が溢れ、そこには過激な文字が書かれていました。大学側との団体交渉は熱気に溢れ、後の組合活動に繋がっていました。それがいつの間にか、若者がおとなしくなり、大人に楯突く時代ではなくなりました。それは若者の数が少なくなったからではなく、楯突く大人が少なくなったせいでもあります。大人と若者が議論し合う姿をほとんど見なくなりました。こんな時代であるからこそ、アンチAのようなシナリオが必要なのかも知れません。故郷の特徴は良いものだけではなく、悪いものもたくさんあります。それらを正し、変えるためには何人かのアンチAが不可欠なのです。

(3)老人Aのシナリオ案
 (1)も(2)も子供や若者がターゲットになっています。大人が子供に、若者が大人に託す夢という構図なのですが、どちらにも老人が抜け落ちています。老人にとって住みやすい故郷、生きやすい環境とは何なのでしょうか。そもそも老人の生きる意義は何なのでしょうか。こんな問いが珍しくないのは、老人の人口増加です。眼前の老人社会をみるなら、老人の哲学が求められていることがわかります。
 哲学者は何にでも関心をもつのですが、流石に老人に関する哲学はまだ少なく、老人の哲学は今のところ十分とはとても言えません。そのためか、老人のためのシナリオが一番書きにくいシナリオになっています。確かに老人の病気や健康を中心に、様々な研究が進み、情報も増えてきました。でも、人間に関する哲学の中での老人は子供や大人についての研究に比べると、偏っていて極めて不十分です。例えば、認識論とは「知る」ことについての研究ですが、「忘れる」ことについての研究など誰も認識論の課題だとは考えませんでした。忘れることは病気であると考えられ、認知症の研究は随分と進展しました。でも、知るや憶えることと「忘れる」こととがどのような関係にあるのかと言った認識論的な研究はまだこれからです。
 小児科があるのと同じような意味で老人科があってもおかしくないというのが現在の常識ですが、かつてはそんなことは誰も考えませんでした。健康な成人を基本にした研究がスタートし、それが子供に拡大し、現在は老人にも及ぼうとしています。それでも、老人に関する総合的なシナリオはまだできていません。そのためか老人Aは自らのシナリオをどのようにつくるべきか迷いに迷っている訳です。
 老人の哲学は心理学と社会学、さらには法律や政治を含んだ総合的なものであり、当然宗教や倫理も入ってきます。老人学のシナリオが正に老人Aが目指すものです。故郷の活性化には若者や子供だけでなく、老人が鍵を握っていることを自覚すべきなのです。老人のための故郷、老人のための地域社会がどうあるべきか、それを大人だけでなく、老人が率先して考え、議論し、シナリオをつくるべきなのです。