哲学の未解決問題(4)

自由意志と決定論
 自由意志(free will)は形而上学心の哲学、行為の哲学、倫理学の主題になると同時に、決定論とどのような関係にあるかが長年大きな議論を引き起こしてきました。実際、その解答内容が倫理的な影響力をもち、私たちの義務や権利、自我概念そのものに関わるゆえに、重大な難問として多くの人の関心の的となってきました。
 私たちは何かを欲する際にも、行為する際にも、それ程自由ではないと考える理由をもっています。人々の嗜好と選択、そして彼らの社会階級と教育の間の相関を考えてみましょう。欲求が生得的(innate)か獲得的(acquired)かは問題にせず、私たちの周りに溢れている広告の効果を考えてみます。広告に引きずり回されているのは誰でしょうか。私たちは思っている以上に選択の自由をもっておらず、実際それを示す莫大な心理学的文献があります。でも、それらが如何に説得的でも、私たちの欲求や行為のもつ自由を無視したり、否定したりするものではありません。
 私たちは世界像をもちますが、それは科学的知識をもとにつくられます。科学的な世界像は、私たちも自然世界の一部であるということを示してくれます。自然世界は決定論的な因果法則に支配されています。それゆえ、私たちの行為すべては以前に起こったもの、なされたものによって決定論的に引き起こされることになります。自由と決定についての三つの立場を先に分類しておきましょう。

1. 固い決定論:スキナー、フロイトローレンツが主張し、哲学者の多くは否定する。
2. 柔らかい決定論ホッブス、ロック、ヒューム等々、多数派を形成してきた。
3. 非決定論:カント、テイラー、実存主義者等、意志の働きを強調する。

 固い決定論の基本的な主張は次の論証にまとめることができます。

P1 どんな行為も、それが起こらなければならない原因があるなら、自由ではない。
P2 どんな出来事に対しても、機械論的な因果法則に従って、それが起こることを保証する先行する原因がある。
C それゆえ、どんな行為も自由ではない。

論証の二つの前提はどのような意味で正しいのでしょうか。P1は「自由」が何を意味するか述べているだけです。P2が決定論の主張です。どんな出来事も因果法則に従って起こります。何事も起こるからには原因があり、偶然に何の原因もなく起こることはないというのが固い決定論の考えです。つまり、P2 は固い決定論者には疑いえない命題なのです。
 原因が結果の生起を保証する、つまり原因があれば、結果が生じなければならない、そして起こるものは何であれ何かの原因の結果であるので、何事も起こらなければならず、あるいは何事も必然的に起こり、それゆえ、自由なものはないことになります。
 人々は多くの出来事についてP2は正しいことを認めますが、人間の行為に関しては認めたがりません。人間は単なるものとは違うと思われてきたためです。それに対して固い決定論者は次のような論証で対抗します。

1 どんな行為も、それが起こらなければならないなら、自由ではない。
2 人間の行為は、欲求、感情、願望等から引き起こされる。
3 人間の欲求、感情、願望等は、それらを引き起こすことを保証する特定の先行する条件によって引き起こされる。
それゆえ、どんな行為も自由ではない。

したがって、固い決定論者は人間も他のものと何も違わないと考えます。あなたの今の行為はあなたが生まれる前から存在する因果的な鎖の一つの輪のようなものです。ですから、あなたは現在の行為と心的状態を自らコントロールしているようにみえたとしても、実際にはコントロールなどしておらず、すでに決まっていたのです。それゆえ、固い決定論は規範的な倫理学のどんな試みに対しても挑戦となっています。規範倫理学では行為に対する責任は自由な行為によって説明されてきました。でも、自由な行為がないとなれば、責任も消滅してしまいます。その結果、規範倫理学も消滅してしまうのです。
 固い決定論の別の論証をみてみましょう。それは自由を仮定して不合理な結論を導くという論証です。

 あなたが自由であるとしてみよう。これは、あなたの行為が因果法則によっては決定されないことを意味している。どんな因果法則もあなたの行為を支配しないなら、あなたが何をするのかを予測することは不可能である。だが、相当な正確さをもってあなたが何をするかは予測できる。そのため、あなたの行為が予測不可能だとすると、それはあなたが自由だからではなく、あなたが異常だからだというのが多くの人の常識的な判断である。したがって、異常でないあなたの行為は因果法則によって決定され、コントロールされていなければならない。

 さて、固い決定論が正しいとすると、次のようなことが成り立ちます。

・道徳によって要請されるという意味での自由はあり得ない。
・善悪の区別がなくなる。
・罪の概念が整合的でなくなる。

でも、固い決定論はこれらの結果が必然的に悪いこと、不都合なことであるとは考えません。例えば、スキナーは、人々の行為は条件付けの結果なので、行為に対する条件付けがうまく行くように、人々の教育をできるだけコントロールすべきであると論じました。
 フロイトローレンツ、そして社会生物学者のドーキンス決定論者です。スキナー同様に彼らも人間の欲求の重要性を認めません。人間の主観性は何の特権ももちません。でも、スキナーと違って、彼らは欲求を決める無意識の力を想定します。彼らは、それら力が進化によって人間の本性の中に埋め込まれてきたものである、と考えるのです。
 固い決定論を信奉するこれらの考えのいずれも自由意志は錯覚にすぎないと主張します。固い決定論によれば、人間性を理解する唯一の科学的に確かな方法が固い決定論なのですから、自由意志という考えは真実を覆い隠し、真なる知識の獲得を妨げることになります。

 柔らかい決定論者は、すべてのものに原因があるが、自由でもあると論じます。「原因」と「強制」を誤って同義だと考える固い決定論は誤りで、行為には原因があるが、強制されるのではないと主張します。行為は原因をもつが、それによって強制されるものではないというのが柔らかい決定論の主張です。
 柔らかい決定論者はさらに続けます。自発的な行為は自由であり、自発的でなければ、それは自由でない行為です。この立場は多くの人が賛成する立場で、デカルトもヒュームも柔らかい決定論者です。柔らかい決定論者は両立主義者とも呼ばれますが、それは自由と普遍的な因果性が両立可能であることを認めるからです。
 柔らかい決定論決定論の主張P2 に賛成します。それゆえ、柔らかい決定論決定論です。でも、P1には反対します。P1は曖昧で、次のように複数の解釈が可能です。
固い決定論は、P1をどんな行為も原因をもつなら起こらなければならない、だから、それは自由ではないと考えます。つまり、原因をもつことは行為を自由でないものにするのに十分なのです。固い決定論によれば、原因は強制的なのです。これは正しい読み方なのでしょうか。
 どんな行為も原因をもたないことはないので、自由でないというのが固い決定論の主張でした。すると、私たちが「行為は自由だ」というとき、それは何の原因ももっていないことを意味していることになります。これは不合理で、誤っている、というのが柔らかい決定論の核心にある主張です。
 「行為が起こらなければならないなら、それは自由でない」の「起こらなければならない」を再考してみましょう。行為が強制されると、「起こらなければならない」という表現になります。でも、強制されない、自発的になされる行為が何の原因ももたないという意味ではありません。銀行強盗が銃を頭に突きつけ、「金庫を開けろ」と命令し、あなたが金庫を開けるとします。それを自由な行為だとは誰も言いません。あなたは強制されたからです。では、金庫を開けることを強制されずに自発的にしたとすると、どうでしょうか。あなたの行為は自発的ですが、それは何の原因ももたないのでしょうか。金庫に保管された書類が必要だったと言われれば、誰も納得するでしょう。柔らかい決定論はどんな行為も原因をもつことでは固い決定論に賛成するが、行為が起こることは行為が強制されることではないと指摘します。柔らかい決定論者には、行為が「自由」という意味はそれが強制されていないというだけなのです。
 固い決定論は二つの事柄を混同していると柔らかい決定論は非難します。「起こらなければならない」には二つの異なる意味があります。最初は、すべてのものが原因をもつという意味であり、それが「起こらなければならない」という意味だとすれば、この意味では何も自由ではありません。でも、原因がないことが自由であるとは誰も信じないでしょう。それゆえ、ある行為がもう一つの意味でも自由でないということを意味していません。つまり、その行為は強制されておらず、自発的であり得ます。
 ここまでの二つの決定論についての議論をまとめておきましょう。

決定論のテーゼ:すべては因果法則に従って起こるので、起こるものはすべて起こらなければならない、

固い決定論決定論のテーゼは正しく、それゆえ、自由はない。起こるものが起こらなければならないなら、すべては強制的に起こる。出来事が強制的なら、それは自由でない。起こるものは皆強制的である。だから、自由なものはない。

柔らかい決定論決定論のテーゼは正しいが、決定論と自由と両立する。というのも、自由は二つの要素、能力と欲求を要求するからである。自由な行為は実行することを妨げるものがない、自発的な行為である。

 非決定論は固い決定論にも柔らかい決定論にも反対します。決定論のテーゼを拒絶する理由として次のようなものが挙げられます。

1. 決定論のテーゼはどんな事態とも両立可能である、つまり、反証できない。
2. 決定論のテーゼは私たちの日常経験を明らかにしてくれない。
3. 機械的な因果性という概念は事物には適用されるが人間には適用されない。人間の行為には目的論的な説明が使われなければならない。

決定論者は、固い決定論が、「決定論のテーゼが正しければ、自由はない」と言うのは正しい、と考えます。それゆえ、固い決定論も非決定論も、起こるものが起こらなければならないなら、自由は存在できないことに賛成する、と主張できます。非決定論者が柔らかい決定論に対して批判しようとすれば、それは次のようになるでしょう。自由の定義の特徴として、本物の自由は文脈的でなければならないと言われます。そして、「Xに関する自由」は次の三つの条件を要求します。

1. 私はXをすることができる。
2. 私はXをしたい。
3. 私はX以外の何かをすることができる。

 「Xを自由にする」には柔らかい決定論者にとってはこれで十分ですが、柔らかい決定論者は3の仮定を否定しなければなりません。それは決定論のテーゼと両立しないからです。では、3は本当に成り立たないのでしょうか。
 決定論のテーゼを疑う哲学的な理由、科学的な理由がいくつもあります。哲学的な理由として次のようなものが挙げられます。
   
機械的な原因と結果の言語は志向的な文脈には適用できない。志向的な文脈では目的論的な説明が必要である。
決定論のテーゼは私たちの日常経験に反するようにみえる。
決定論のテーゼはどんな事態とも整合する。

科学革命以後の科学の進展は、科学的な知識が適用される範囲を自然世界に限定してスタートしました。その際、人間は科学的な探求から除外され、人間の理解には科学的な理解と異なる枠組みが使われ続けました。また、古典的世界観(Classical World View)は古典力学に基づく決定論的な世界観でした。これらのことが上記の理由の背後にある事実です。でも、20世紀後半の科学的探求は、さまざまな現象を非決定論的な理論を使って解明しようとしてきました。確率・統計的な知識を使って非決定論的なカオス理論や量子力学が生まれ、非決定論的な世界観が生まれようとしています。非決定論は非古典的物理学のイデオロギーのように考えられていますが、正確にどのような意味で非決定論的なのかがしっかりわかっているわけではありません。そのため、特に量子力学は実に多くの哲学者、物理学者が多大な関心を寄せ、集中的に議論がなされている領域です。これらの研究動向が健全であれば、条件3は満たされ、それゆえ、本物の自由が存在できることになります。