一輪のガーベラから

一輪のガーベラから…(1)
 居間にガーベラの黄色い花が見える。そのガーベラを見て、薔薇より菊に似ているとふと感じたのだが、それが本当かどうか暫くして気になり出した。薔薇と菊という対比は私のような世代には珍しいことではなく、つい大上段に振りかぶり、西洋と東洋の美的センスの違いの象徴だなどと捉えてしまうのである。
 そのハイカラな名前からすれば、ガーベラは薔薇族と思いがちだが、南アフリカ原産のキク科の多年草をもとに品種改良された園芸植物である。和名のオオセンボンヤリは,日本産の同属植物センボンヤリの大型種というところからついた。
 キク科の植物で今咲いているのが秋桜(アキザクラ)。コスモス、大春車菊(オオハルシャギク)がその別名。さらに、ずっと大型のダリアも、ずっと小型のタンポポも同じキク科である。だが、バラ科にはサクラ、ハマナス、そしてリンゴやイチゴ等が属していて、私たちの生活世界では決してキク科の一方的な勝ちにはなっていないことを忘れてはならない。実際、今は秋咲きのバラが目につく。とはいえ、キク科の方がバラ科よりもずっと種が多いことも(生物学的な)事実である。キク科はバラ科よりずっと細かく分化していて、多様な被子植物の中でも代表格になっている。
 ガーベラがバラ科だったら、きっと私はこんな文章すら書かなかったろう。

*では、この最後の文を私が書いてしまったのは何故なのか。小文としての落しどころがこの文なのだが…ひょっとすると、私は背後で何かに操られてそのように考えてしまったのではないか(典型的なオタクの疑問)。こんな疑問をもってしまうと、これまた気になって仕方ないのである。

一輪のガーベラから…(2)
 私がバラやキクの花を好きになったり、嫌いになったりするのは、私の自由意思によるのではなく、花の策略、つまりは植物の戦略なのではないのか。植物は花を使って私の美意識や心理に働きかけて私の心をコントロールしているのではないか。そんなSFめいた妄想は意外にも進化生物学のストーリー作りの定番の材料の一つなのである。生き物の適応は形態や行動だけでなく、相手を利用する、支配する、助けるといった様々な仕方で、時には利己的、時には利他的に進化してきた。適応は進化の結果であり、そこには生き物の創意工夫の結晶が詰まっている。
 植物たちの生きる知恵の一つが私たちと共生する戦略開発である。私たちと共生するには常にウィン-ウィンの関係ではなく、互いに切磋琢磨する生存闘争も不可欠という実に懐の深い関係が構築されてきたのである。
 生き物の科や属は仲間や群れとして、血縁関係の範囲を示しているが、こぞって見る者、触る者に何かを強いる、何かを避けさせるのが花たちの一般的な戦略だとしてみよう。そして、それこそが植物の主要な戦略なのだと仮定してみよう。植物は私たちをそのことによって操っていて、それがこれまであらかた成功してきたと考えると胸のつかえが下りたような気持になるのである。バラの祖先もキクの祖先も競い合って互いが対抗しているかのようなイメージを私たちに植えつけることに成功してきたと考えれば、私のキクとバラに対する意識も元を辿ればキクとバラの共同戦略ということになり、私は彼らの掌の上で踊らされていたことになる。
 進化生物学ではこのこのような適応のストーリー(モデル)づくりがよく行われる。そこで、陸上植物の光合成の物語を紹介してみよう。キクとバラが互いを敵対関係に置くかのような適応をして私たちと共生する物語より生物学的な説得力がある話であるが、その話からバラ-キク物語を各自に空想してほしい。

一輪のガーベラから…(3)
 話を「陸上植物」に限ってみよう。陸上植物とは、簡単には「緑色藻類が陸上で進化したもの」である。現生のシャジクモ(車軸藻)がその祖先藻類に近いと考えられている。植物も藻類も光合成し、栄養を自給自足する。だから、彼らは「食べない生き物」である。そして、この光合成は細胞内に共生した「葉緑体」との共同作業で行われる。葉緑体はもともと、真核細胞に入って共生した「オリジナル光合成生物」の末裔で、その「オリジナル光合成生物」が葉緑体の祖先である。それは多分原核生物の「シアノバクテリア」と考えられている。では、シアノバクテリアに侵入された、あるいはそれを食べた真核細胞は何だったのか。もし食べたのなら、シアノバクテリアを「食べもの工房」として取り込んだことになるが、それは「ハテナ」という生物にヒントがありそうだ。
 ハテナはれっきとした学名で、その代表種はハテナ・アレニコラ。ハテナは「不思議」という意味が込められているようだが、何が不思議なのか。ハテナは「クロミスタ界」に属する単細胞の原生生物で、元来葉緑体を持っていなかったはずだが、自然の個体のほとんどは葉緑体を持っている。ハテナは他の藻類を「食べて」葉緑体を手に入れたのである。つまり、ハテナは、動物のように他の生物を「食べる生き物」である。相性のいい藻類を食べると、ハテナはそれが持っていた葉緑体を自分のものにしてしまう。
 不思議なのは、これが二分裂するとき、一方は葉緑体を継承して「緑のハテナ」のままだが、他方は継承せず「白いハテナ」になってしまうことである。白いハテナは素に戻って他の生物を「食べ」、運が良ければまた葉緑体をゲットする。二分裂した後の「緑のハテナ」は「鞭毛藻」という植物、「白いハテナ」は「鞭毛虫」という動物。昔ならそれぞれ植物図鑑と動物図鑑に分けて載せられただろう。
 ミドリムシの緑色はもちろん葉緑体の色だが、葉緑体を失った「白いミドリムシ」と目される生物がいる。それが「アスターシア」という鞭毛虫で、その遺伝子を調べると、ミドリムシ擬きで、ミドリムシの近縁である。そのためか、誰もその瞬間を目撃していないにもかかわらず、ミドリムシ葉緑体を失ってアスターシアになったと考えられている(種の分化を目撃することはとても厄介なのである)。あるいは、逆に、アスターシアが何らかの方法で(おそらく他の藻類を食べて)葉緑体をゲットしたのがミドリムシになったのかも知れない。
 このように、葉緑体はいろいろな生物に「食べて」ゲットされるし、いろいろな生物間で「やり取り」される。極論すれば、葉緑体を持っている生き物が「暫定的な植物」で、それを暫定的でなく安定的・固定的に保ち続けて陸上進出を果たしたのが「陸上植物」である。つまり、植物とは、葉緑体を食べ、それを自分の一部にしてしまったものである。葉緑体が栄養をつくってくれるから、自分は何もせず、光によく当たるよう茎を伸ばして葉を広げるだけである。
 そう考えると、植物は「食べるのをやめた動物」に思えてくる。植物は幸運にもシアノバクテリアを究極の「食べもの工房」として自分の一部にし、そうでない動物は相変わらず動いて食べ、食べるために動いている。動かずとも食べる方法を手に入れ、食べるために動かなくてもよくなったのが植物だとすれば、動物は知能的に進化したが、本当のところは植物の方が「食べる」ことに関して賢いのかも知れない。

一輪のガーベラから…(4)
 (3)の物語はもっともらしいとはいえ、物語作り自体が科学では後ろめたい面をもっている。科学は物語ではなく事実だという盲信があるから、物語と科学は相性が悪いと信じ込まれてきた。歴史や物語は因果的な変化の適当なまとまりであり、科学でも日常生活でも私たちが経験することの基本構造になっていることを思い出してほしい。実験も観察も原因と結果の間の経緯の記録であり、因果的変化の証拠として使われてきた。日常生活は原因と結果の連続であり、それを利用し、それに翻弄されるのが私たちの生活である。つまり、科学も日常生活も、その活動は因果的な変化からなっているのである。
 物語、歴史の基本単位は「原因-結果」の対であり、「AならばB」という文がその基本的な対を表現している。一方、接続詞としての「ならば」は論理的なもので、因果的関係を一義的に表すものではない。不思議なことなのだが、私たちはこの基本的な因果的「ならば」をうまく表現できないのである。
 そのため、私たちは原因と結果を実証的に究明できると、私たちは論理的な「ならば」を使ってこの因果的変化を表現するのである。フッサールはかつてガリレオが自然を数学化し、自然を隠蔽したことを非難したが、ガリレオが数学化を採用した理由は因果的変化を数学を使って論理的に表現するしか方法がないと直観したからだった。
 植物と私たちの共生の歴史や戦略についても基本は同じで、その歴史や戦略は因果的な変化の物語となる。その物語を述べるために数学モデルや統計データが使われ、進化のシミュレーションが行われる。そのゴールは物語の作成であり、それによって私たちは植物の巧みで強かな目論見を知ることができる。因果的な出来事を戦略や作戦として知ることは物語として理解することであり、それが「因果的に知る」ということの意味でもある。「知る」こと自体が情報処理の過程をもつ因果的な出来事であるが、それと同時に知る内容も因果的な内容であり、「知る」ことは正に「因果的に知る」ことなのである。
 今の私にはバラとキクがどのように私を操るかの物語をつくることができない。その状況で思い出されるのは孫悟空釈尊の話である。悟空は釈尊に力試しを申し入れ、承諾される。早速孫悟空はキントウンを呼び、 全力あげて飛んだ。どうだといわんばかりに釈尊の元へもどった孫悟空に、「おまえが飛んでいるうちに、五つの大きな山があったろう。真ん中の山の頂上に、お前は何を書いてきたか。」 と問われ、「孫悟空この山を征服せり、と記しました」と答える孫悟空釈尊は手のひらを開いて見せ、 「おまえは、この中指の先に書いている。」と答えた。進化の謎だらけの経緯は私たちにとっては釈尊の手のひらで走り回るに過ぎず、事実を知ることからは程遠いことなのだろう。それでも手のひらの上で走り回るしかできないのが私なのである。