公園て何だろう:二つの公園(3)

アメリカの国立公園
 日本の国立公園は実質的には第二次世界大戦GHQの指示のもとにスタートします。では、肝心のアメリカの国立公園の制度や歴史はどうなっていたのでしょうか。ここではごく初期の経緯をジョン・ミューアを通じて辿ってみましょう。
1803年、当時のトーマス・ジェファーソン大統領は、ルイジアナを買収します。ジェファーソンはこの未開の地を調査する必要があると思い、主に軍人からなるルイス・クラーク探検隊を組織しました。1804年5月に調査を開始し、11月に現在のポートランド付近の太平洋岸に達し、アメリカ大陸の陸路横断に成功します。その帰路、隊員のジョン・コルターが1807年、白人として初めてイエローストーンを発見しました。
 19世紀後半、イエローストーンヨセミテの自然保護のために内務省のハイデン博士は、これらの地域の国有化を働きかけ始めました。しかし、議会や一般の人たちは、イエローストーンヨセミテの風景は単なるホラ話と考えていました。そこで、ハイデン博士は画家モーランと写真家ジャクソンを隊員に加えて、探検隊を組織します。1859年から2年計画で、イエローストーンを始めとするミシシッピー川上流域の調査を始めます。悪天候南北戦争の影響で全計画の遂行はできませんでしたが、ジャクソンが撮影した写真とモーランの絵はイエローストーン公園法の公聴会で人々の心を捉えます。それまで金の無駄と反対していた議員たちも態度を軟化し、1872年に大統領グラントがイエローストーン公園法に署名、世界で初めての国立公園が誕生しました。でも、国立公園に指定されたイエローストーンの管理はほぼ何もなく、動物の密猟や観光客による破壊が始まっていました。
 1800年代後半ヨセミテに巨大ダムを作る計画が持ち上がります。当時ヨセミテに住み着いて動植物の研究をしていたジョン・ミューアが反対運動を始めます。1890年ヨセミテが国立公園に指定され、ダム計画が廃止されます。この運動は、世界初の自然保護運動と言われています。
 ルーズベルトは歴代大統領として初めて、アメリカ西部の国立公園を視察しました。彼は、この視察旅行で自然保護と国民による自然景観の共有が必要と判断し、道路や宿泊施設の整備などに予算をつけました。1910年グレイシャーが国立公園に指定されます。1916年国立公園実施法が制定され、内務省に国立公園局が設置されました。
 さて、自然保護の先駆者とも言えるジョン・ミューアについて述べておきましょう。彼は、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれました。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔をもっています。1849年、ミューア一家は合衆国に移民します。まずウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住みます。厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働きました。農作業のあいまに、ミューアは弟を連れて自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策しました。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていきました。彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、正確に時を刻む時計や愉快な目覚まし装置などを考案し、州の品評会に出品、賞賛を受けました。同じ1860年ウィスコンシン大学に入学。成績は優秀でしたが、3年後マディソンを去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅しました。ウィスコンシン州は北海道の北部のような自然環境にあり、酪農中心の農業地域で、森と湖が多く、大学のキャンパスがあるマディソンン市は今でも自然の中にあります。
 1867年、ミューアインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明します。1ヶ月後に視力は回復しましたが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになりました。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのです。それからミューアの放浪の日々が始まります。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸しました。ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテでした。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達しました。彼はその自然に魅了されます。そして、その夏ミューアは羊を率いてヨセミテに移ります。
 1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を発表しました。彼の名は国中に広まり、当時の著名人たちがヨセミテの彼のキャビンを訪れています。1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家としても成功します。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けますが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見します。1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれました。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めました。
 しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、アラスカに幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けました。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど足を運びました。後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説きました。
 ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びます。彼は同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかりました。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議された。ミューアは他の国立公園の制定にも携わりました。彼がよく「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以です。1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版しました。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのです。
 トレッキング(trekking)は、山歩きのことで、登頂を目指すことを主な目的としている登山に対し、特に山頂に到達することにこだわらず、山の中を歩くことを目的としています。山の中の道として有名なのがアメリカの長距離自然歩道、ジョン・ミューア・トレイル(John Muir Trail)です。カリフォルニア州内を、ヨセミテ峡谷(ヨセミテ国立公園)からマウント・ホイットニーまで、340キロメートルにわたって縦走する道です。トレイルの大部分はパシフィック・クレスト・トレイルの一部になっています。この名前は、「自然保護の父」ジョン・ミューアにちなんで命名されました。
 妙高とその周辺にも自然歩道があり、毎年その道を走るランニングレースが行われています。今年も9月に開催されます。信越五岳の裾野を駆け抜ける100マイル、100kmのトレイルランニングレースで 、累積標高差4670mの難コースに熱い戦いが繰り広げられます。