二つの「うまい」経験

 私が海を知ったのは5歳の頃で、かつての妙高は海と疎遠だった。その私が4年生の夏休みに一人で祖父の妹が住む糸魚川の寺で過ごすことになった。周りには水田が広がり、小出雲と似たり寄ったりの田舎。私がそこで一番驚いたのは寺の生活ではなく、魚の味だった。魚がまるで違う。新井の魚は何とまずいかはっきり気づいたのである。妙なところで妙な発見をしたものだが、どんな魚であれ、煮ても焼いても、兎に角うまいのである。今なら運送システム、冷凍技術が発達して、味に違いなどあろうはずがない。だが、当時は海に近いところの魚、つまり直江津糸魚川の魚と新井の魚はちがっていて、その新井の魚がまずいことを私はその時に学習したのである。
 うまい魚は子供の頃の経験だが、二番目は中年になってからの経験。仕事でパリに行ったとき、昼食時に時間がなく、公園の屋台で売られているフランスパンのサンドイッチを食べたのだが、そこに入っていたレタス、トマト、キュウリの味が途轍もなくうまく、自分が食べてきた日本の野菜のまずさを即座に痛感したのである。竹刀で頭を強か打たれるほどの衝撃だった。だから、当然ながら次の日の昼めしも同じものを食べた。パリの野菜には形容し難いほどの味があったのである。それ以来、今でも私には日本の野菜がおいしいとは思えないのである。これが私の二番目の「うまい」食べ物の経験で、二つともよく似ている。口に入れた途端、食材そのものがうまいと直感する経験である。巧みな味付けや盛りつけではなく、食べる物自身がうまく、それが直接に伝わってくるのである。
 私は未だにこの二つの食べ物経験を凌駕するような食べ物経験をしていない。というより、経験しようとも思わない。経験する必要がないほどにそれら二つの経験は私には貴重で、料理とは独立した味の質(クオリア)なるものがあるという私なりの証拠になっている。誰にもこれと似た経験があって、一生忘れることができない食べ物や飲み物の経験がある筈である。
 私はまだ糸魚川の魚とパリの野菜に匹敵する食べ物を経験していない。すぐ傍に豊洲市場がオープンしても、魚や野菜の味が変わる訳ではない。それは魚に限らず、肉も野菜も然りで、今では日本中、どこでも似たりよったりのものが食べられる。むろん、郷土の味として推奨される食材や料理は幾つもあるのだが、私はグルメではなく、妙高で三番目の食べ物経験をしたいと願ってもいない。二つの食べ物経験を大切にしたいだけなのである。
 「うまい」という経験から推論されるのが「まずい」という判定、判断だとすれば、食べ物に対する好き、嫌いの経験はそれとは違っている。子供の時から食べ物は好き、嫌いの判定、判断で選ばれている。だから、子供は好き嫌いが目立つ。そして、ある時、偶然に「うまい」ものを発見し、それまで知らなかった「うまい」に遭遇し、気づくのである。「好き、嫌い」のレベルの食べ物が、「うまい、まずい」によって類別され出すのである。そう考えるなら、私の二つの「うまい」経験は「好き嫌い」識別から「うまいまずい」識別への突然の移行だったのである。
 ところで、食べ物の味は、料理人が支配し、生み出すような味と、食べ物自体がもつ味という二つの違う味がある。私が4歳の時の経験がこの例になるだろう。私の祖父はよく夜遊びに出て、子供の私が起きている間に帰ってはこなかった。そんな時は朝起きると枕元に土産の海苔巻きが置かれているのだ。寿司屋の海苔巻きの味は家で食べる素朴な押しずしとは違って、いわば洗練された味だった。これもうまい経験なのだが、これは調理されて生み出された味であり、既述のうまい経験のうまさとは一味違ううまさなのである。それは食材そのもののもつうまみと調理によって生み出されたうまみの違いであり、どうも私は調理のうまみを食材のうまみより先に経験したようなのである。