些細な幾つかの問いと哲学

 以下の各問は何とも雑な問いだという印象を与えるのだが、風狂老人には哲学の問いはこのような問いの蓄積だと思っている。問いに貴賤はなく、問いはどれも一考に値するものだと思っている。その意味で、禅問答も問いであることに変わりはなく、差別するつもりは毛頭ない。

・点に部分がないなら、その点にはサイズがないことになるのか。
・サイズのない点が集まると線になるのか。線になるにはどのように集めればよいのか。
・太さのない線が集まると面になるのか。面になるにはどのように集めればよいのか。
・太さのない線でつくられる図形はどうして存在できるのか。

・時間や空間は実在するのか。
・マクタガードによれば、時間や空間は実在するのか。
・心と脳はどのような関係にあるのか。
デカルトは心と脳をどのように考えたか。
・倫理的な事実とはどのようなものか。
サルトルにとって倫理的な事実とはどのようなものか。
(上記のように「哲学者の名前が入った問いはそうでない問いとどのように異なるか」もまた優れた問いである。)

・「どんな人にも好かれる人がいる」と「どんな人にも好きな人がいる」との関係は「どんな数にもそれより大きな数がある」と「一番大きな数がある」との関係と何が同じか。

 上記のような問いが哲学ではお馴染みの問いなのだと私は思うが、注意してほしいのは「カントにとって時空は実在するか」と「時空は実在するか」という問いは、「カントにとって」の有無だけではなく、根本的に異なる問いなのである。哲学の問いは文句なしに「時空は実在するか」なのであるが、その問いにしっかり解答するために、時には「カントにとって時空は実在するか」の答えも必要になるのである。
 最後の問いは私の好きな問いで、解答する際の工夫として、一番大きな数はなくて、ある数より大きな数が必ずあるような数のモデルを考え、「AはBより大きい」を「AはBが好きである」と解釈して、同じようなモデルをつくって、問いに解答してみよう。
 「哲学とは何か」と問われ、「哲学する」とは「問いに答える」ことだ、というのが最も一般的な答えなのだろう。兎に角、問いを考え、それに答えてみる、そしてそれを蓄積していく。それが平凡だが、「哲学する」ことなのだろう。