小児往生や幼児洗礼:補遺

 キリスト教には宗教についてまだ自覚できない幼児に洗礼を行う教派と行わない教派があります。東方の正教会カトリック教会、聖公会ルーテル教会などはいずれも幼児洗礼を認めていますが、バプテスト教会アーミッシュなどはこれを認めません。
 これと類似しているのが仏教の小児往生で、既に何度か述べてきました。争点は「小児が極楽往生できるか否か」。当時越後には、子供に御文を抱かせ、大人が代わりに「この子の後生助けたまえ」と頼めば、生後間もない小児でも極楽浄土に往生できるという「御名(おな)がけ」の儀式がありました。新井の願生寺は自覚的帰依がないとこれを批判し、15歳以下の小児往生を否定しました。一方、高田の浄興寺は小児往生を弥陀の本願に合わせて認めたのです。その結果、二つの有力寺院はいずれが異安心(異端)かで激しい論争を繰り広げることになりました。これが大問題なのは、自覚が信仰には不可欠というのが仏教の正論でも、小児の往生を除外すれば、十方衆生を救うと誓った阿弥陀如来の本願と矛盾するからです。結局、本山東本願寺は願生寺の主張を異安心と裁定しました。喧嘩両成敗なのか、「御名がけ」の作法も否定したのです。
 こうして、キリスト教でも仏教でも、信仰に自覚が必要か否かという問題を共有していたことがわかります。
 マルティン・ルターは、幼児洗礼が「神の賜物」であり、完全に受動的な聖霊の働きと考え、洗礼による聖霊の働きによって、心からの信仰の告白に導かれると理解しました。自由意志を認めず、すべてを神の意志とするルターなら、幼児洗礼も成人洗礼も違いはありませんから、何ら問題は生じません。自由意志を認める人には、自由意志に従って洗礼を受けるか否かは大きな問題となります。現在、大谷派には帰依することを自ら表す帰敬式という儀式があり、受式年齢に制限はなく、生後間もない小児にも法名が与えられます。
 しかし、帰依がわからない小児や死者には帰敬式は不可能です。でも、無自覚者こそ、キリストや阿弥陀如来が救済しようとする人たちです。ここに矛盾の源があります。帰敬式の受式年齢制限を廃して、如来が与える凡夫往生を実現するにはどのような理屈が必要なのでしょうか。
 今でも問題は未解決のままです。でも、信仰をもつきっかけや発端に私たちの自由な意志が関わり、それをどのように理解するかによって様々な立場が分かれるのは確かです。ですから、小児往生や幼児洗礼は自由意志に密接にかかわっていて、そう簡単には解決できそうもないことだけはわかります。