妙高市と浄土真宗

 妙高市カトリックの牙城だなどとは誰一人思わない。それどころか、妙高市に特定の宗教色などないと断じる市民がほとんどではないだろうか。街を歩いても宗教的な看板やスローガンなどに出会うことはまずない。陣場霊園の広告など見ても、他の日本の都市と何ら変わらない。宗教的なスキャンダルの話も聞こえてこない。越前、越中のようにかつて激しい一揆があったとも伝え聞いていない。新井の願生寺が異安心事件でつぶされ、関山神社に宝蔵院があったことくらいがせいぜいの歴史的事柄だった。それさえ知らない市民が多い。
 だが、ちょっと統計資料を調べるだけで妙高市の寺院の9割以上が浄土真宗であることがわかる。この数値は新潟県でトップだけでなく、真宗のホームグラウンドと言われる福井、石川、富山の3県の割合(多くて8割強)を大きく離して断トツなのである。旧新井市、旧妙高村、旧妙高高原町の何れも9割を超え、妙高市はどの地域も真宗寡占状態で、これが少なくても江戸時代から変わっていないのである。この数字を信用するなら妙高市浄土真宗一色に染まったままで、人々は押し並べて信心深い門徒ということになる。

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 ところで、上の図形は錯視図形と呼ばれるもので、図形としては同心円なのに、視覚的にはどうしても同心円には見えず、円がいくつあるのかさえ明晰判明ではない(図参照)。だから、私たちの視覚が正常に働かず、錯覚を起こしているということになる。これが錯視図形についての私たちの常識的な説明である。数字の上では妙高市浄土真宗のメッカそのものなのだが、そこに暮らす誰もがそれを実感することがない。それゆえ、市民は誤った実感をもっていて、本当は信心深いのだと常識的に結論したくなる。だが、このように結論する人はいない。むしろ、寺院の数は普通だが、たまたま真宗の寺院が多いだけに過ぎないのだと解釈する方が常識的なのではないか。北欧の都市に教会がよく見られ、教会の数が多いと気づくと、そこからキリスト教への信仰が根付いていると考えたくなるが、実情はまるで違っている。教会を取り壊すことができず、教会内部を本屋やバーに変えることが行われ、見かけの教会数と信仰は関係がなくなっている。これと似たことが妙高市にも言えるのではないか。いや、それどころか妙高市の寺院も他の日本の寺院と同じく、遥か前から信仰の場ではなくなり、葬儀や法事の場に変わっていたのであるから、そのように解釈することに何の不思議もないのである。
 何とも夢のない、悲観的な結論である。だが、ほぼ真宗独占の無風の環境の中で信仰をもち続けた私たちの先祖は浄土真宗こそが正真正銘の仏教で、念仏を唱えることによって往生できると信じて疑わなかったと推測できる。そして、信仰の上で対立するものがない安穏な環境で、念仏を唱え続けることができた。これは、一途な門徒にとって無上の幸せだったに違いない。だから、現状は一途な門徒にはやるせない限りに違いない。だが、その子孫である多くの妙高市民と私にはさして悲観的には映らないのである。

*オランダ南部にあるマーストリヒトに「世界で最も美しい本屋」がある。2010年にイギリスの新聞『ガーディアン』が世界中の本屋から「世界で最も美しい本屋」を10軒選び発表した中の1軒が、マーストリヒトにある「ドミニカネン」で、かつては教会だった。古い教会が別の施設に転用されるのと同じように、日本の寺社ももっと多様に使われるべきなのだろう(https://matome.naver.jp/odai/2140802457582548301)。