なぜ、人の歯は一生に一度だけ生え変わるのか(改訂版)

 この簡単そうに見える、いかにも子供がしそうな問いに真剣に答えようとすると意外に大変なのである。生え変わらない人はいないのか。二度以上生え変わる人はいないのか。いずれもいないことが証明できないと、完全な答えにはならない。経験的に「必然的にそうだ」と答えることはほぼ至難の業である。だが、この問いに不完全にしか答えられないことが、この問いが科学的な問いであることを如実に示しているのである。
 さて、この問いに段階的に答えてみよう。人に歯がある理由は主に三つある。一つは、生きるためにものを食べるため。二つ目は、コミュニケーションをとるために明瞭な発音を助けるけるため。最後は理由というより結果と呼んでもいいのだが、顔の形を整えるため。歯がないと、顔の輪郭がすっかり変わってしまう。
 人は、妊娠7週目ぐらいから、口のなかに歯のもととなる芽がでてくる。生後8か月ごろから乳歯が生え始め、3歳ごろに20本の乳歯すべてが生えそろう。その後、身体が発達し、あごも大きくなるが、乳歯の大きさはそのままで変わらない。そのため、次第に歯と歯の間にすき間がでてきて、食べ物を十分に噛めなくなる。成長した顎に合った大きさと数の歯が必要になる。そのため、乳歯から永久歯に生え変わる。これが「なぜ、人の歯が生え変わる」かの答えである。 乳歯そのもののサイズを変えても隙間をうめることができるから、永久歯に生え変わるのは様々な対処の仕方の一つに過ぎない。だから、永久歯に生え変わる方策が最適かどうかは推測に過ぎない。
 永久歯は乳歯の下で成長していく。永久歯の根が作られ始めると、乳歯の根を溶かす細胞が作られて、少しずつ溶かされていく。根がなくなると、乳歯はグラグラして抜け落ち、永久歯に生え変わる。乳歯がうまく抜けなかったり、いつまでも残っていたりすると、永久歯の位置がずれて歯並びが悪くなることがある。また、永久歯は乳歯を目指して伸びていくので、乳歯が早く抜けてしまうと、永久歯が目標を失って、ずれた場所に出てしまうことがある。生え変わりは実に微妙なタイミングを必要とする。生え変わりは6歳ごろから始まり、12歳過ぎには上下28本の永久歯(「親知らず」という第3大臼歯を除く)が生え揃う。
 だが、生まれつき永久歯の本数が少ない人もいる。日本小児歯科学会による2007年の調査で、生まれつき永久歯の本数が少ない「先天性欠如歯」の子供のが10人に1人の確率でいることがわかった。できるはずの永久歯の芽ができない、またはできても育たないためである。人間の退化の一種と考えられているが、多くの場合、原因は不明のまま。
 乳歯と永久歯が違う点は、(1)色は乳歯が白に近いがが、永久歯は黄色みを帯びている。(2)大きさは、全般的に乳歯のほうが、永久歯より一回り小さいサイズ。(3)歯質は、歯の表面のエナメル質、その下の層にある象牙質ともに乳歯のほうが薄い。そのため、乳歯のほうが永久歯よりも虫歯になりやすい。
 ここまでの説明は「なぜ、生え変わるか」より「どのように生え変わるか」の説明だと言った方が適切かも知れない。通常は「なぜ(why)」と「どのように(how)」はまるで違うことだと思われているが、実際は重なる部分をもっている。因果的な説明は進化的、歴史的な説明と重なっている。そして、科学的な分脈では重なることが意外に多いのである。
 では、なぜ、人の歯は一度だけ生え変わるのか。動物の歯はどうだろうか。サメの歯は2日から10日に1回、新しい歯になる。新しい歯は、顎骨の内側でどんどん作られ歯茎のエスカレーターにのって外側に押し出される。そして、外の歯が抜け落ちると、次の歯に替わるという仕組みになっている。ゾウの歯は、生えては抜けることを一生の間に6回繰り返す。ネズミの歯は生え変わらないが、前歯は一生伸び続けるため、ネズミは硬いものをかじって前歯を削っている。これらの例だけでも、動物によって歯の生え変わり方は違っていることがわかる。これは個々の動物の異なる適応の結果であると考えられる。人の場合は1回だけ生え変わるというのが進化の結果であり、それが「なぜ、一度だけ生え変わるか」への答えとなっている。
 さて、「なぜ、人の歯は一生に一度だけ生え変わるのか」への答えをどう捉えるべきなのか、まとめてみよう。「なぜ、人の歯は生え変わるのか」は乳歯と永久歯の機能、成長との関係から説明された。ここではどのように(how)が説明の実質的な内容になっていた。だが、「なぜ、一度だけ生え変わるか」はヒトの進化の中で獲得した適応の結果として説明された。ここではなぜ(why)が歴史的な説明の内容になっていた。構造的、機能的な説明と進化的、歴史的な説明は異なるスタイルの説明である。異なる説明方式が二つの問いへの答えとして採用され、それらを合体することによって、タイトルの問いへの答えになっていたのである。そして、これが答えるのに意外に大変な理由となっていたのである。
 二つの異なる問いへの異なる解答がミックスされて、一つの問いへの一つの解答といった外観を呈していたというのが種明かし。これで背後のトリックがわかったとはいえ、そこには多くの推測や過程が含まれていることを忘れてはならない。