生きることは老いること

 生きものは老いるものだと考え、その老いることに何かと介入するのが人間である。成長と老化を余りに対照的に捉えることが生きることを知る上での誤りの出発点になっていると捉える人は少なくない。そんな人にとっては、成長と老化は対照的どころではなく、同じ現象の二つの側面に過ぎないのである。生きものは変化するしかなく、それをある時期は「成長」と呼び、別の時期は「老化」と呼ぶのだが、いずれも生きるという変化に過ぎないと考えることができるからである。
 生まれると喜び、死ぬと悲しむという古来からの習慣はいつの間にか生死と感情の間の結びつきを確立したと言われると、大抵の人は成程と信じてしまう。だから、生まれることを悲しみ、死ぬことを喜ぶということが、あたかも習慣破りであるかのように受け取られ、それについて結構な数の賛同者を得てきたのだ。生まれることを喜ぶのはどうしてなのか。死ぬことを悲しむのはなぜなのか。この種の問いは最初から無益と受け取られ、誰も真面目には考えない。真面目に考え出すと迷宮入り間違いなしかどうかもわからないまま、兎に角、誰も真面目に考え始めようとはしない。
 私たちの生存を脅かすものの発生や誕生は嫌われる。私たちの生活に有用なものの誕生は喜ばれる。家畜の死は悲しまれるが、厄介な獣の死は歓迎される。結局、人は自らのために喜び、悲しむのである。大抵の場合、好き嫌いの感情は極めて利己的であり、それをもとにした別の感情もやはり利己的なのである。

 老いも若きも生きている。生きることは年齢に関係がない。これには誰も反対しないだろう。だが、生きることは老いることそのものだと言うと、反対する人が相当いる筈だ。生きていなければ老いることもなく、生きていればこその老いなのである。むろん、若い生き様と老いた生き様は同じではない。とはいえ、年相応の楽しみや悲しみが生きることには必ず付き纏っている。楽しみや悲しみの記憶が蓄積され、それらが分類され整理されても、それによってどれだけの効果がもたらされるかは意外にわからないものなのだ。過去の記憶が老いることにどのように作用するかは千差万別で、記憶の老いへの功罪は不明である。悔いるだけの記憶と誇れるだけの記憶などと、記憶も分類されるためか、それらが綯い交ぜになった場合には誰も何も言えなくなってしまう。
 なぜ老いるのか。こんな馬鹿げた問いを真剣に考えるのが人の人生なのかも知れない。老いることに抵抗し、悲しみ苦しむのは人だけかも知れない。老いることを受容するために多くの人は宗教に頼る。新しい生命のために老いて死ぬことが求められ、それを考えるなら、老いることは生まれるために必要なのだと達観すればいいのだが、それができないのが人なのである。何とも悲しく、しかし健全なことか。