明治の「廃仏毀釈運動」は日本の文化財の破壊の危機をもたらしました。それを救ったのが九鬼隆一と岡倉天心でした。二人は全国の寺社仏閣を精力的に調査し、保護すべき文化財を調査し、文化財保護の基本となる古社寺保存法を明治30(1897)年に制定します。二人によって日本の文化財は救われたのです。二人は並外れた能力だけでなく、独特な個性と強烈な欲望をもっていました。
九鬼隆一は福澤諭吉の慶應義塾に入学し、その翌年に文部省に入り、日本の古美術の調査保存や美術教育に力を注ぎ、後に男爵に列せられました。一方、岡倉天心は1862年生まれで、フェノロサの影響によって日本美術に傾倒し、文部省に入り、九鬼のもとで美術行政に関わり、東京美術学校の設立、日本美術院の創設などを行い、横山大観などの優れた日本画家を育てました。天心は九鬼より12歳年下、文部省で上司である九鬼に私淑し、九鬼の考え方を美術の世界に鮮やかに展開していきます。「九鬼のある所必ず天心あり、天心ある所必ず九鬼あり」と言われるほどの仲になります。
慶應義塾に学んだ九鬼は、福澤諭吉が唯一生涯許さなかった弟子です。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田(みた)にあり」と言われた福澤が脱亜論から迅速な近代化を実現しようとしたのに対し、文部省の九鬼は「古来の日本にも素晴らしいところあり」と主張しました。そして、私学の弾圧に乗り出し、官学重視路線をとります。慶應義塾にとって九鬼は正にユダだったのです。
さて、九鬼は日本の美術史を語る上では大変な恩人の一人で、岡倉天心と共に日本美術の再評価に努め、美術行政にも力を注ぎ、文化財保護に多大な貢献をした官僚政治家として名を残しています。九鬼の出身は兵庫県の三田(さんだ)。ここは、多くの人が福澤から強い影響を受けた地域で、白洲次郎の祖父である白洲退蔵も三田の出身で、福澤門下生でした。福澤が、大隈重信ともに政府転覆の疑いを向けられた「明治14年の政変」の時、九鬼は慶應義塾関係の情報を薩長の政治家に内通していたといわれ、福澤は政変後、このことに激怒、一切の交遊を断ちました。福澤が美術に関して消極的とも取れる発言を繰り返したのは、美術行政を握っていた九鬼への憎悪に由来する、とまで言われています。
脱亜、欧米化という圧倒的な流れの中で、九鬼と天心の興亜思想が日本文化の誇りを守る防波堤になります。この二人には、時代を読む洞察力、目立とうとする性癖、そして好色であったことなど、共通点が実に沢山あります。それが九鬼の妻と天心との不倫騒動に発展していきます。九鬼の息子の周造は、自らを天心の子ではないかと疑うのですが、彼は後に哲学者となって『「いき」の構造』という名著を著すことになります。
*北康利『九鬼と天心』(PHP研究所、2008)