性悪(しょうわる)が願う善人

 性善説について性悪な私がどう捉え、表現したらいいのか思案した挙句、思いついたのが次のような物語。それにしても、善悪とはなんと性悪(しょうわる)なことか。

 知子(さとこ)が早朝のバスに乗って最初に脳裏をかすめたのは自分が既に42歳だということだった。今日は中絶の日で、幸いバスは空いていて腰かけることができた。このところの苦悩、そして決断が今朝の彼女を突き動かしていた。この歳で子供を産むべきかどうか随分と迷い、苦しんだ末、彼女は中絶を選んだのだ。そして、彼女はクリニックへ行くためにバスに乗った。今朝の知子は自分の人生で二度とないことをしようとバスに乗ったのだ。

 俊雄の母は認知症で寝たきりで老人ホームで暮らしている。そんな母に会いに行くために彼は早朝のバスに乗った。不思議なことに俊雄には母と暮らした子供時代の記憶がない。だから、母でありながら、母という気持ちはなく、自分は冷たいと自認してきた。それでも、母に会いに行って一週間も過ぎると、母の様子が気になってしょうがないのである。この数年、俊雄の心を不安にするのは母なのだ。既に足腰は立たず、それに認知症で、時には俊雄さえ誰だかわからなくなる。そんな母に会いに行くために俊雄は朝のバスに乗ったのだ。

 知子が隣の席に座った時から俊雄はどこか懐かしい気がしながら、彼女の尋常でない様子を感じていた。思い詰めたような緊張と切迫を感じながら、俊雄は母親に今日は何を言おうか考えていた。そのうち、知子はバスを降り、俊雄は彼女のことを忘れ、母親の死をいつも通り考え出していた。
 母は相変わらずで、元気とも言えないが、しぶとく生きていた。だから、俊雄は暫しの安堵の気持ちで座席に座った。その時、見覚えのある顔が近寄ってきて俊雄の傍に座った。それはなんと朝逢った知子だった。彼女は子供を始末し、虚しさや後ろめたさを覚えながら、バスに乗り込んできたのだった。俊雄は咄嗟に彼女を想い出した。自分が中学校の教師だった頃の教え子の一人だったのだ。すっかり変わっていたが、当時の面影は残っていた。知子の方もすぐに分かったらしく「あら、先生」とちょっと驚いた様子だった。

 人が生まれることを嫌う人はまずいない。生まれてくる子は通常祝福される。生まれたての赤ん坊は悪人ではなく善人というのが常識。元気に泣く赤ん坊が悪意に満ちているなどと思う人はいない。どんな悪人でも死ぬときにはもう善人として受け入れられる。死ねば確実に善人として葬られる。親鸞を持ち出さなくても、死ねば仏である。生まれるまでは、そして死んでからは、人は性悪ではないのだ。人は人になる前も後も善い存在なのだ。人が性悪なのはこの世で暮らし、助け合い、騙し合う時だけなのだ。そんなことを二人ともぼんやり思いながら、過ぎた善き昔を思い出し、コーヒーを飲みながら偶然の出会いを喜び合った。今日自分たちがそれぞれ生まれる機会を奪い、善人になる機会を奪っていることを胸に秘め、そして今自分たちが生きて、していることは確かに性悪だと噛みしめながら、いなくなった赤ん坊も死んでいくだろう母親も何と善人なのかと性悪な自分を悔やみながら、善かった過去を語る互いの顔を見合うしかなかった。そして、会話が互いを慰め合うことなどほんの一時しかできないと知りつつも、それが救いだと思うしかなかった。

 偶然に似たような気持ちを胸に秘めながら、それを確かめ合うことなど当然なく、二人はそれぞれの家路についた。