自由意思の正体

  「男心と秋の空」、「男の心と川の瀬は一夜に変わる」といった格言の「男」を「女」に取り換えても、同じように成り立つためか、今では「女」もよく使われ、「女心と秋の空」も立派に市民権を得ている。「わからぬは夏の日和と人心」とあるように、男心でも女心でも、状況に応じてよく変わるのが人の心というもの。そもそも人の心は夏でも秋でも季節に頓着せずよく変わる。ここで哲学すれば、人の心はそれぞれの人が自ら変えるものだが、秋の空や夏の日和は気象上の要因によって変わるものである。格言はこの点で哲学的とは言えず、人心も空も同じように変わるものだとうわべの現象だけ見て、勝手に推量したようである。さらに、心変わりは連続的に起こるのか、それとも不連続的に起こるのかは誰にもよくわからない。また、心は意識からなり、その意識が流れるのだと言っても、どんな風な流れなのかこれまた誰にも見当もつかない。
 兎に角、そんな心変わりを売りにするのが人というもの。人は心の変化を脳過程の変化としてではなく、意識の変化と捉え、その変化を言葉を使って物語る。そんな風に言うとついわかった気になるが、人が選挙で誰を選ぶかさえ誰にも予測できない、というのが言葉による議論の結果だった。とはいえ、昨今の選挙は予測の精度が上がり、開票前にある程度わかってしまい、開票時の緊張感が乏しくなってしまった。大袈裟に意思決定などと呼ばれる人の心変わりは、それまでの信念を変更することによって起こる。その信念変更は情報操作によって引き起こされる。この種の手法は随分と進化し、心理工学と言ってもよいほどである。情報操作が働くカラクリはおよそ次のようである。
 「流行、雰囲気、状況、文脈」などと呼ばれてきたものについての情報を下敷きにして、それが「風が吹く、潮目が変わる」と言った変化の徴、兆候を目印にして、その仮説を採用した人たちの信念が変わっていく。一方、この仮説を認めない人たちは、兆候など無視してそれまでの信念を変えない。適度に論理的で、理屈を中心にする、適度に情緒的で、感情が中心に置かれる、このような異なる心的状況の中で信念が変わる、変わらないが決まっていく。人の投票行動はこれからますます実証的な研究が進み、人のもつ自由意思の聖域は侵害され、暴かれていくことになる。
 このように人の心は変えることができ、実際人の心は変わる。その変化は時には驚嘆、感嘆すべきものだが、時には落胆を引き起こす。人は自分で決めることに異議を申し立てることはないが、人が決めることに従うことには執拗に抵抗する。そして、人に自分の未来を決められることには激しく拒絶する。この伝統的な態度の背後にあるのは、個人のもつ自由意思だった。だから、私たちが自由意思をもつ限り、誰も他人の心の内には踏み込めないと思われてきた。そして、他人にわかることは決まった結果だけだと思われてきた。だが、そのような伝統的な考えは急速に変わろうとしている。信念変更のプロセスが認知科学的に解明され始めている。そして、その成果の一つが選挙結果の予測である。

 人の心は変わるが、自分の心は変えることができる。心変わりと同じように身体変わりを考えれば、心と身体の変わり方は違っている。身体は心によって変えられ、心によって動かされる。
 「変える、変わる」と「決める、決まる」の間の関係はよく似ている。政治家は有権者の心を掴み、その考えを変えようとする。だが、実際に変えることができるのは政治家ではなく、一人一人の有権者の自由意思。政治家にわかるのは決まった結果だけ、つまり選挙結果だけなのだ。「変える」と「変わる」の間を、「決める」と「決まる」の典型的な手段である選挙を通じてどのように結びつけるか、今のところ政治家だけでなく、誰もが蓋然的にしか知らない。これが確実に知られるようになると、「変える、変わる」、「決める、決まる」のギャップがなくなり、「変える、決める」は「変わる、決まる」によって説明できることになる。
 それでも、政治家だけでなく、多くの人は自分が人の考えを変えることができると確信して活動している。自由意思論を巡る事情は曖昧であるゆえに、今の現実の世界では諸刃の剣に似ている。ところで、「他山の石」は『詩経-小雅・鶴鳴』の「他山の石、以て玉を攻むべし」の省略形。「よその山の粗悪な石でも砥石に利用すれば、自分の玉を磨くことができる」という意味で、他人の誤りを自分に役立てること。変える、変わるときに人は誤る。だが、変わる前に誤りはなく、変わった後にしか誤りは現れない。誤りがわかったところで、他山の石とするしかない。何とも情けない話だが、一寸先は闇であり、人のミスさえ利用しなければならないのが私たちの行為なのである。
 「変える、変わる」(「決める、決まる」)と「誤らせる、誤る」とは違うのだが、それぞれどのように違うのかは次第に見当がつき出している。認知科学は侮れないが、まだ謎は多く、それを適当に斟酌しながら、按排しながら生きているのが今の私たち。だから、私たちは選挙結果に一喜一憂しながら、それら結果を他山の石にするしかないのである。

 自由意思は存在するのか、それとも幻想に過ぎないのか。かつてエラスムスが自由意思の存在を主張すれば、ルターはその存在を否定した。その後、自由意思の存在を巡って議論が飽くことなく続いてきた。自由社会で誰もが自由意思をもち、それを十分に行使できるというのが近代以降の社会の理念の一つになってきた。自由社会とは誰もが自由意思を何の制約もなくもてる社会なのである。
 自由意思論では、自由意思をもつと信じてよいことが説明され、十分な根拠、正当性があると主張される。だが、それでもそれが幻想であることは十分可能であることは映画「マトリックス」を例に出せばわかるだろう。AIは自由意思をつくり、しかもそれは幻想でコントロール可能であるような状況を生み出すことができる。こうして、自由意思を巧みにつくり、それを壊すことが人工的に可能であることになり、これを利用して聖域である心に働きかけることが可能となる。
 私たちが「決める」と思っていても、実は「決まっている」のであり、それが運命に支配されているという表現に現れている。神は「自然の変化が決まる」ことを決めている。この点で、自由意思の行使は神の立場に立つことができることを意味している。だが、問題が一つある。「自由意思によって決める」ことを「論理的、因果的に決まる」ことによって説明することは瞬時にできる訳ではなく、解析の装置がないと私たち自身ではできない。ここが神と私たちの違う点である。
 私たちが何の補助装置もなく、一人で生活している場合、私たちはこれまで通りに自らの自由意思によって決め、相手については推量することしかできない。むろん、少々知識は増えていても、私たち自身が解析の装置を自前で持つことはできない。物理学や生物学の実験装置が私たちの外にあるように、解析の装置も私たちの外にあって、私たち自身とは離れている。補助装置がない場合、私たちは原点に戻るしかない。車も飛行機もなければ、私たちは自らの足に頼るしかない。それと同じように、心の解析装置がなければ、私たちは伝統的な心との付き合い方に頼るしかない。