神の智慧、人の知識など…

 『般若心経』の実物となれば、空海が書き写したと伝えられている奈良の海龍王寺(隅寺)に残るお経が有名です。実際は弘法大師より古く、1200年以上も前の奈良時代のもので、今でも写経の定番となっています。
 ところで、『般若心経』で主張されているのは仏の智慧、人の知恵、あるいは知識、それとも情報、いずれなのでしょうか。個々の出来事、日々の事件は情報と呼ばれ、知識とは言いません。個人的な事柄は私的な記憶、歴史の一部は公的な記録と区別されますが、客観的な記憶や主観的な記録は、例えば日記として立派に存在可能です。一つの実験結果は情報ですが、その結果によって検証される事柄は知識です。こうなると、残された「神の情報」、「人の智慧」といった表現は果たして有意味なのか知りたくなります。
 人が生きるための知恵は学校で習う知識とは違うというのが世間の常識ですが、神(あるいは仏)の智慧はいずれのタイプなのか、それともいずれでもないのでしょうか。あるいは、両方のタイプを併せもつものなのか、答えは千々に乱れるばかりです。智慧、知恵、知識、常識、情報などと私たちはまことしやかに分類しているのですが、その分類と命名の理由や根拠は曖昧模糊としたままで、真理からは程遠いものです。ですから、このような用語を生活世界で巧みに使い分けるのに必要なのは知識、それとも知恵、あるいは常識なのかと問われると、まごつき、口籠るしかないのです。
 経験を通じて獲得する知識は神の知識ではないことになっています。それは人間に特有の知識で、人間は経験を通じてしか知識を獲得できないというのが経験主義の基本主張です。情報として手に入れたデータが脳内で処理され、言明として表現できるものになり、さらに他人によって検証され、知識に衣替えすることになります。つまり、情報が知識になると考えられているのです。ところが、神には人並みの経験がありません。ですから、神は情報を知識に変えることを学習する機会がありません。経験や学習がないとすると、それは神のもつ知識の欠点にはならないのでしょうか。神は親子愛や友情、裏切りや挫折を経験できません。したがって、神は悪を知らないのだと言いたくなるのですが、神は何でも知っていることになっています。これでは矛盾してしまいます。やはり、神は私たちのようには知ることができないのだと言わなければなりません。
 さて、ここからが真面目な話ですが、智慧、知恵、知識、情報の間に本質的な違いがないのだとしたら、どうなるのでしょうか。また、四つが皆根本的に違うのだとしたら、どうなるのでしょうか。それぞれ異なる状況を仮定して寓話やSFを創作してみるのも面白いのではないでしょうか。

(1)智慧=知恵=知識=情報
(2)智慧、知恵、知識、情報がみな異なる
(3)智慧と知恵は同じだが、それらは知識とも情報とも異なる
(4)(1)から(3)までのいずれでもない

その他にも色んな可能性の組み合わせがありますが、(1)から(4)までを代表として様々なシナリオを考えて、思考実験してみると面白い筈です。併せて、このような思考実験は神や仏を冒涜することになる不謹慎なものかどうかも考えてみるべきです。智慧、知恵、知識、情報などの間に差別や誤解、偏見や無視がないかどうかを見直す絶好の機会になると思われます。