ダリの「記憶の固執」と「記憶の固執の崩壊」

La persistencia de la memoria, conocido también como Los relojes blandos o Los relojes derretidos es un famoso cuadro del pintor español Salvador Dalí pintado en 1931. Realizado mediante la técnica del óleo sobre lienzo, es de estilo surrealista y sus medidas son 24 x 33 cm. La pintura fue exhibida en la primera exposición individual de Dalí en la Galerie Pierre Colle de París, del 3 al 15 de junio de 1931, y en enero de 1932 en una exposición en la Julien Levy Gallery de Nueva York, Surrealism: Paintings, Drawings and Photographs. Se conserva en el MoMA (Museo de Arte Moderno) de Nueva York, donde llegó en 1934. En una revisión posterior del cuadro, Dalí creó La desintegración de la persistencia de la memoria.(Wikipedia
 「記憶の固執」はフランス語なら「La persistance de la mémoire」、そして英語なら「The persistence of memory」。サルバドール・ダリの作品の中でも、到達点の一つとされるのが「記憶の固執」。柔らかい時計と呼ばれることもある。

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記憶の固執

 サルバドール・ダリ(1904~1989)は不思議な絵を描く作家として記憶されている。ダリはシュールレアリストで、「記憶の固執」に描かれた溶けて曲がった「柔らかい時計」はダリの描く作品によく登場する。「記憶の固執」は、1931年にダリによって制作された24.1cm×33cmの油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。1934年に匿名の人物によりジュリアン・レヴィ・ギャラリー経由で同美術館に寄贈された。
 溶けている時計は、台所で溶けるチーズを見てインスピレーションを得たとされ、「その晩の夕食の仕上げは、たいそうこってりとしたカマンベール・チーズだった。みんなが出かけた後、私はテーブルに向かったまま、このチーズが心に呼び起こした「スーパー・ソフト」という哲学的問題について、長い間瞑想に耽った」と述べている。背景が描かれていた状態で、ガラが映画を見に行っていた2時間ほどの間に時計などが加えられたとも自身が述べている。ダリ自身は、「柔らかい時計は生物学的に言えばダリ的なDNAの巨大な分子である。それらは永続性ゆえにマゾ的であり、舌平目の肉のように機械的な時間という鮫に飲みこまれる運命である」と評している。絵画の解釈や解説には様々な憶測が現在も飛び交っている。
 彼の故郷であるカタルーニャは、ダリ作品に大きな影響を与えている。パニ山の山裾にある、ダリの家族が利用していた夏の別荘は「パニ山の山影とカダケスの風景」に見られるように、類似した場面が彼の作品に度々登場していた。「記憶の固執」では、パニ山の山影が前景を緩やかに覆い、ケープ・クレウスのゴツゴツした沿岸が遠景に横たわっている。構図の中心、ダリが当時の彼自身を表現するのに用い、その後の作品にも頻出する自画像のような抽象的な形をした奇妙な「モンスター」の中に、人間の姿を感じることができる。その「薄れていく」生物は、夢の中で正確な形と構図がわからないものであり、まつげの生えた閉じられた片目は、その生物もまた夢を見ているとも解釈できる。この図解はダリが経験した夢に基づいたもの、また「ぐにゃぐにゃの時計」は夢の中で過ぎ行く時間の象徴かも知れない。ダリは「記憶の固執」を覚醒時ではなくより夢の中で見られる像としてシュルレアリスムの画法に従って描いている。

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記憶の固執の崩壊

 「記憶の固執の崩壊」として知られている作品には、「記憶の固執の調和した崩壊が始まっている高度に着色された魚の目の染色体(The Chromosome of a highly-coloured fish's eye starting the harmonious disintegration of the persistence of memory)」という正式名称がある。「記憶の固執」を描き直したもので、25.4cm×33cmというやはり小さな作品。記憶の固執と比較すると、描かれていた故郷スペインのカタルーニャ・カダケスは浸水状態にあり、この浸水によってタイトルにある崩壊を表現している。また、平面のブロックもこの作品では、小さな形状に分割されて秩序正しく描かれており、原子核を表現している。そして、このブロックの後ろには、角状のものが飛んでおり、それは原子ミサイル。平和の象徴であるオリーブの木も、このミサイルによって分断され、地球には秩序があるにも関わらず、人類が秩序を破壊する可能性があること、原子ミサイルが平和を脅かしていることを強調している。これらはダリが原子物理学に傾倒していたことを示している。地球に秩序があるにも関わらず、人類がその秩序を破壊する可能性があることを強調している。柔らかい時計がかけられているオリーブの木もまた、バラバラに解体されて死が迫っている。4つの時計の縁やダイヤルも分解されてバラバラになりつつある。中央の生物はオリジナル版よりも透明状のゼラチン状となり、その上方に魚が並置されている。オリジナル版では魚は描かれていなかったが、ダリは「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っている。「記憶の固執」に比べ、すべてが説明的で、わかりやすい。

 記憶についてあれこれ思案している私の眼前に飛び出してきたのがサルバドール・ダリの「記憶の固執」と「記憶の固執の崩壊」という二作品。シュールリアリズムの傑作ということになっているのだが、私の脳裏を過ぎったのは、上記の概略からもわかるように、『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』と『2010年宇宙の旅(2010: Odyssey Two)』の二つの映画。私の中では二つの映画の評価とダリの二作品の評価が重なってしまうのである。だが、絵画には素人の私が気になるのは絵ではなく、そのタイトルである。
 「固執」は「こしつ」か「こしゅう」かなどと今でも問われる。「こしつ」というのが今の読み方で、「こしゅう」でも構わないことになっている。では、ダリの絵は何と読むのか。私の推測では「きおくのこしゅう」。「こしゅう」でも「こしつ」でも、その意味は同じ。
 「固執」の意味は自分の考えを押し通そうとすること。つまり、他人の意見に耳をかさず、あくまでも自分の考えを押し通したり、主張したりすることである。「自説に固執する」、「立場に固執する」などと使われる。「固執」の「執(しつ)」には「かたくつかんで離さない」、「こだわる」という意味がある。執念、偏執、妄執など、固執の他にも「執」のつく漢字は、一筋縄ではいかない「こだわり」の意味が含まれている。「固執」の類語である「執着」は「そのことばかりを思って忘れられないこと」という意味。「執着」とほぼ同じ意味なのが「執心」。「執心」は特定の異性にとらわれている様子をからかい気味に表現している。「拘泥」は「必要以上に気にしてこだわる」。しつこくこだわり続ける様子なら「執拗」。
 「固執」の対義語は「譲歩」で、「道を譲る」ことから、自分の主張を曲げて相手の意見と折り合いをつけること。双方の主張が対立しているとき、お互いの主張を譲り合って一致点を見いだし、解決策をみいだすことが「妥協」。
 「崩壊」はdisintegrationのことで、分裂、分解、風化、粉末化とも訳される。

 こんな辞書のような確認をして、果たして「記憶の固執」、「記憶の固執の崩壊」というタイトルが何を言わんとしているかわかるのだろうか。とんとわからないというのが私の答え。「記憶がこだわる、執着する」という表現に意味があるかと問われると、どうもそれはないというのが大方の答え。では、端的に誤訳ではないのか。スペイン語や英語のタイトルから「固執」と訳すとわからなくなるのではないかと考えてしまうのである。別の訳を探すと、「記憶の残渣」。残滓と残渣は、残渣は主に溶解や濾過で使われる、残滓は例えでよくつかわれるといったところが違いである。当然ながら、記憶の搾りかすという意味での「記憶の残滓」でもない。
 もっと素直になって、「記憶の持続性、永続性」の方がまだマシである。記憶ではなく、時間であれば、「時間の持続性」はしっくりくる表現である。それと似たように記憶も持続するのだが…
 こんな風に見てくると、この絵のタイトルの訳は何が相応しいのかますますわからなくなる。ちなみに、固執するのは私であり、記憶や時間ではない。私は自らの記憶を信じ、それに固執するのであり、私の記憶が何かを信じ、固執するなどといったことはあり得ないのである。私が自分の記憶や世界の時間的、因果的な出来事の経過に固執するから、記憶や時間は持続したり、分断されたりするのである。相対性理論でも量子力学でも物理時間は連続的に、あるいは不連続的に持続する。そもそも時間がなければ物理世界はあり得ないのである。となれば、「持続していた記憶が自然法則に調和的に従って分解が始まる高度に着色された魚の目の染色体(The Chromosome of a highly-coloured fish's eye starting the harmonious disintegration of the persistence of memory)」と訳したくなるのは私だけではないだろう。
 時計が曲がることは時空が歪むことの一例になることができても、時空の歪みを象徴的に表象できる訳ではない。時空が曲がるから、そこに置かれた時計も曲がるに過ぎないのであり、時計のぐにゃぐにゃすることが時空の曲がりでないことはダリならしっかり承知していた筈である。実際、ぐにゃぐにゃした時計が置かれた場所はぐにゃぐにゃしていないのである。