憶える、忘れる、そして知る(後)

(三)
 大学に入って最初の夏休みに読んだのがアルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』(Le Mythe de Sisyphe)。神を欺いたシーシュポスは彼らの怒りを買い、大きな岩を山頂まで運ぶという罰を受けた。彼は神々の命令通りに岩を運ぶのだが、山頂に到達した瞬間に岩は転がり落ちてしまう。彼はまた同じ動作を繰り返さなければならない。何度運び上げても、結局は同じ結果にしかならなかった。カミュは、この神話を借りて、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける姿を描き出してみせた。その一部を引用してみよう。

 ホメーロスの伝えるところを信じれば、シシューポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。僕はここに矛盾を認めない。
 彼が地獄で無益な労働に従事しなければならぬに至った、その原因については、いろいろな意見がある。まず第一に、彼は神々に対して軽率な振る舞いをしたという非難がある。神々の秘密を漏らしたというのだ。ある時、川の神アソポースの娘アイギナがユピテルに誘拐された。父親は娘がいなくなったのに驚いて、このことをシーシュポスに陳情した。 この誘拐の事情を知っていた彼は、コリントスの城塞に水をくれるならば、事情をアソボスに教えようといった。天の怒りの雷電よりも、かれは水の恵みのほうを選んだのである。このため、彼は地獄で罰を受けた。ホメーロスはまた、シーシュポスは死の神を鎖でつないだという話を僕らに伝えている。冥府の神プルートンは、自分の支配する国にだれひとり来なくなり、すっかり静まりかえったありさまに我慢がならなかった。彼は戦争の神をいそぎ派遣して、死の神を、その征服者シーシュポスの手から解放させたというのだ。
(中略)
 神話とは想像力が生命を吹き込むにふさわしいものだ。このシーシュポスを主人公とする神話についていえば、緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目もの同じ斜面にそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。引きつったその顔、頬を岩におしあて、粘土に覆われた巨塊を片方の肩でがっしりと受けとめ、片足を楔のように送ってその巨塊をささえ、両の腕を伸ばして再び押しはじめる、泥まみれになった両の手のまったく人間的な確実さ、そういう姿が描かれている。天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力の果てに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下の方の世界から、再び岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれは再び平原へと降りていく。
(中略)
 今日の労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨なあり方を隅々まで知っている。まさにこの無残なあり方を、かれは下山の間中考えているのだ。かれを苦しめたに違いない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳(新潮文庫)より)

 カミュの作品と今の私の関心は同じではないのだが、繰り返される無駄な動作という点では似ている。その似ている動作は「知る」という動作である。
 「知る」は動作であるが、「知っている」は状態。それと同じように、知覚する(見る、聞く、等々)ことは動作だが、知覚している状態は知覚の内容(知覚するもの、知覚したもの)を必要とする。知覚が志向的だと言われるのは、「知っている、知覚している、意識している」という状態の場合についてである。「見えている、見ている」方が「見る」より志向的な対象を必要としているようにみえる。同じように、「知られている、知っている」方が「知る」より志向的な対象が想定されている。単に「知られている、知っている」では意味不明で、「何かが知られている、何かについて知っている」でなければならないという訳である。
 ところで、「忘れる」は動作なのか。意図的に「忘れる」ことは時に推奨されるが、これは結構難しいことで、嫌な記憶を簡単に忘れることは容易ではなく、一生引きずることさえある。これは「知る」にも言えて、知ろうという意図はあっても、知ることが難しいことはたくさんある。だから、人々は新発見を称賛する。
 知る(忘れる)動作は人が単独で行うものであり、その意味で私的である。だが、知っている(忘れている)状態は複数で構わない。その状態は志向的な内容を表現できなければ無意味であり、その意味で公的である。つまり、何を知っているか(忘れているか)表現できなければならない。すなわち、知る(忘れる)動作は私的であり、公的なのは知っている(忘れている)内容なのである。
 「知っている」ことを忘れることはできても、「知る」ことを忘れることはできない。というのも、「知る」を支える好奇心は本能的なものだからである。動作(行為)としての「知る」は生涯維持できるが、状態としての「知っている内容」は到底維持できない。実際、人は加齢とともに多くのことを忘れるのである。
 「忘れている」ことを知ることはできても、「忘れる」ことを知ることはできない。動作(行為)としての「忘れる」は生涯維持できるのだが、状態としての「忘れている内容」は既に忘れている本人は知る由もないのである。
 好奇心は忘れず、維持できるが、何に好奇心を抱いたかの内容は翌日にはすっかり忘れられていて、記憶として維持できない。このようなことは認知症の人には当たり前のことで、知りたい欲求と知りたい内容はまるで別物である。この好奇心とその結果の組み合わせが無為なこと、無駄なことが存在することを示すのが認知症認知症は人生とはそのようなものに過ぎないという結論を支持している。知るという好奇心が無為な結果しか生まないことが人生の意義を揺るがすことになるとは誰も思わないだろうが、本人が知ろうと行為し、わかっても、翌日にはわからなくなっているというのが人生であるというのもまた確かな事実である。

(四)
 時間の矢のある生活世界での知識や認識についてのモデルを考えようとすると、不可避的に「忘れる」ことが重要になってくる。時間の矢がない物理モデルは「忘れる」ことのないモデルであるが、私たちが生活する世界は忘れることがある世界、つまり時間の矢が歴然と存在する世界である。そこで、人間的なラプラスの悪魔、あるいは忘れる悪魔を考えてみよう。
 ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749–1827)は18世紀のフランスの数学者であり、物理学者、天文学者。彼は次のように主張する。

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう(『確率の解析的理論』)。

世界に存在する全物質の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば、その存在は、古典力学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の知性をエミール・デュ・ボワ=レーモンが「ラプラスの霊(Laplacescher Geist)」と呼び、その後「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という名前に落ち着いた。
その後原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能である(不確定性原理)ことが明らかになり、ラプラスの悪魔は否定されたのである。
 さて、人間的な悪魔を考えてみよう。本来の悪魔はいつでもどこでも世界の状態を知ることができ、その意味で全知の能力をもっている。そこで、その悪魔が物忘れする能力をもったとしてみよう。これはとても人間的で、本来の彼は忘れても即座に知り直せるのである。私は世界を部分的、断片的にしか知ることができず、その上よく忘れる。忘れる悪魔はとても人間的で、自分が全知と信じていても、何かを忘れていることに気づかず、後になってそれがわかるという点で人間的なのである。
 初期状態という情報の一部を忘れてしまい、不完全なモデルで予測することになると、正確な未来や過去の予測ができなくなる。それだけでなく、忘れる前のモデルと忘れた後のモデルでは違いが生じ、その違いが時間の矢の存在の証拠となる。人間的な悪魔は時間の矢が存在する世界でないと存在できない。その世界で忘れる悪魔はどのように想起するのか、忘れている間の悪魔の心とその認識はどのようなのか、悪魔は何をどのように忘れ、どのように憶えるのか、そして憶えている世界と実在する世界はどのように異なるのか。実在する決定論的な世界と忘れ物がある意識の世界の違いは、決定論と非決定論の違いを彷彿させるが、その間の関係は情報のもつ物質とは異なる特徴を手掛かりに、知識と世界との関係に切り込む一歩になるのではないか。