憶える、忘れる、そして知る(前)

(一) 
 プラトンの『ソクラテスの弁明』はソクラテスの思想が形成された直接のきっかけを語っている。彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所で巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねたところ、その答えは「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」だった。これを聞いて、自分は賢明でないとわかっていたソクラテスは驚き、神託の意味を自問した。そして、彼はその神託の誤りを証明しようと、世間の賢者たちに尋ね、彼らが自分より賢明であることを示そうとした。だが、実際に賢者たちと話してみると、彼らは専門的な技術について知っているだけで、他のことには無知だと気づいていなかった。こうして、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、最大の賢者とは、自分の知識など実際には取るに足りないことを自覚する者」ということだと解釈した。
 さて、「知らないことを知る」ことは健全な好奇心のなせる業。どこにも奇妙な点はない。だが、「知らないということを知る(無知の知)」ことは現実の生活ではほぼ無意味。この意味のない言明と上の話の最後の「知識など…取るに足りないことを自覚する」ことはまるで違うようにみえる。とはいえ、上のテレビドラマの脚本のような要約もプラトンの意図とはどうしても思えない。
 知らないことを知ることは、知っていることを知ることとは違って未知への挑戦そのものである。知っていることを知らないということは嘘をつくことになりかねない。だが、知らないということを知ることは嘘ではない。空腹の私が米櫃が空だとわかるようなもので、確かに米櫃以外のところを探すには少しは役立つが、その程度である。最大の賢者とは自らの知識の未熟さを自覚する人なら、その自覚が大切なのは、未知のものを既知にする自覚的な挑戦のためである。つまり、知らないことを知るために賢者の自覚が必要なのである。
 知らないことを一途に知ることと、知らないということを自覚することは大変に異なるようにみえるが、その違いなどないのがこれまでのことからわかったろうから、余計なことなど考えず、知らないことを一途に追求するのが最善の途なのである。そして、それがプラトンの脚本ではなかったのか…

(二)
 (一)の話をまとめて、私の心の内だけでもスッキリさせよう。

(1)知っていることを知る(知の知)
(2)知っていないことを知る(無知の知

 「何」を知っているか、とソクラテスに問われれば、その答えは、人の名前、計算の仕方、離婚の理由といった諸々のもの。その諸々のものは直ぐわかるものから、暫し考えてからでないと答えられないもの、辞書で確認しなければならないものまで様々。様々に知っている状態が異なっていて、一筋縄でいかないのが知の実態。だから、「知っていること」を知る仕方も多様で、差異がある。これを気障に「知の差異性」と呼んでおこう。
 「何」を知っていないか、と問われれば、知っていないのだから、何を知らないかは答えようがないと(「知る」を行為と解して)答えるのではないか。そうでなければ、知っていないことを比喩的に表現して、間接的に答えるだろう。これらの答えはソクラテスの「無知の知」とは異なる。ソクラテスの場合は次の(2)'のようになっている。

(2)'知っていないということを知る(ソクラテス的な無知の知

(2)は「I know what I don't know.」、あるいは「I know what I didn't know.」のことだと考える人が多いが、ソクラテスの場合は「I know that I don't know anything.」、あるいは「I know that I know nothing. 」、「I know one thing: that I know nothing.」である。ソクラテスの場合、何を知らないかの「何」は問題にならない。そのため、無知の確認には差異はない。つまり、「無知の同一性」が成り立つ。
 「知る」が行為であるのと違って、「知らない」は行為ではなく(心的な)状態である。これは、「歩く」は典型的な行為だが、「歩かない」は文字通り動作の否定であり、行為ではないのと同じことである。

(3)知っていることを知らない
(4)知っていないことを知らない

 いずれも矛盾した、無意味な文だと直感するかも知れないが、矛盾でも無意味でもない。実際、(1)と(2)の「知る」は認識するという行為を表現しているが、(3)と(4)の「知らない」は行為ではなく、心的状態を表現している。ついでながら、「知っている」、「知っていない」はいずれも心的状態に言及している。「知らない」は行為ではなく、一つの心的状態であり、(3)も(4)も高次の意識状態の表現として可能である。

(5)知ることを知らない
(6)知らないことを知らない

 これらの文もやはり矛盾でも無意味でもない。ソクラテス無知の知は心的な状態を知ること、わかることである。それと同じ仕方で知の知を理解すれば、知っている状態を知ることであり、それは少々退屈なことで、面白みがない。知っている状態を知ることと、知る行為を知ることは違っている。後者は知ることを自覚的に行うことに過ぎず、高次の意識ではない。
 肝心な点は、何を知っているかの「何」に応じて、「知っていることを知る」が変わることである。再度確認してみないと知ると言えないものがたくさんある。「知っている」と言っても尋ねられるたびに実行しないとわからないものも多い。「知っている状態」は様々で一言でまとめることができないのである。ところが、知っていないことは再度知るなどということはできないし、知っていないということを知ることは知っていないことの内容の再確認は不必要。それゆえ、いずれにしろソクラテス無知の知は「知の知」とは根本的に異なるのであり、真に厄介なのは「知の知」なのである。「知の知」の解明こそが賢者の石を手に入れる鍵を握っているのである。
 そして、ソクラテスが知っていない心的状態を知るというのとは違って、「知っていない状態」を高次の意識として知るのではなく、「知っていない内容」を知るのが知ることのまともで当たり前の役目だということを肝に銘じるべきなのである。
 これでスッキリしたかと言えば、一層混乱しただけかもしれない…