閑話:「Xを忘れる」が示唆するもの

 「憶えていないものは思い出せないし、忘れたものは憶えておらず、それゆえ、忘れたものは思い出せない。」これは当たり前の推論で、そこに登場する言明も正しいことから、つまらない自明の主張だと誰もが判断する。だが、「忘れる」、「憶えていない」(「忘れない」、「憶えている」)は一体どのような記憶あるいは意識の状態なのか自問してみると、これが意外に謎で、厄介なのである。
 「私はXを忘れる」を私自身が自発的に発言できるか、と問うてみよう。「忘れる」という心的動作(?)ではなく、心的状態にしようとすれば、「忘れている」となるだろうから、「私はXを忘れている」として、問い直してみてもよい。誰からも何からも情報を与えられることなく、「私はXを忘れている」と私自身が自発的に気づいて、この文を発言できるのだろうか。さらに、過去形にして、「私はXを忘れていた」の場合はどうだろうか。私には前者はできそうにないのだが、後者の場合は私が自ら発言しても何ら支障がないように思われる。
 「私はXを忘れている」は「私はXを憶えていない」と同義だとすれば、やはり同じ問いが成り立つ。そして、「私はXを忘れている」、「私はXを憶えていない」ことをやはり私自身で自発的に意識できない。私は私以外のものや人からの情報の助けなしには意識できない、つまり、自分の内部情報だけでは自発的に意識できないというのが私の答えである。これは一見奇妙で、理不尽なことに思われる。
 だからこそ、私の記憶や意識と外部世界とのコミュニケーションが必要で、それによって手に入る情報と自分がもつ知識によって意識も記憶も顕在化され、安定してその内容を理解できるようになるのである。意識や記憶という心の中の世界は無言で、惰性的で自らを自発的に主張することはなく、所有者の私にとっては不気味であり、時に不安定で信頼できないものに化するのである。安定的で信頼できるものにするためには常に外部との情報交換を行うことが不可欠で、それが更新され続ける必要がある。これが実在にはない特異な性質だと考えられるが、記憶も意識の変化もそれを所有する私が変化し続けているためであり、実在も状態として変化するなら情報交換によって更新され続ける必要がある。記憶や意識が潜在的な在り方をしているのは、コミュニケーションが個体の生存に不可欠であることを支えるためなのである。
 記憶の内容は外部の刺激に応じて顕在化したり、潜在化したりする。外部刺激の情報がなければ、記憶は何のためにあるのかさえわからない。記憶を有用な知識として利用するには外部とのコミュニケーションが必要で、それがなければ記憶は単なる倉庫で、その扉は閉じたままということになる。
 記憶や意識の形態はコミュニケーションを助け、コミュニケーションは記憶や意識の形態を生み出している。つまり、記憶と意識はコミュニケーションと共生関係にあることになる。

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