閑話:言葉の並び

 日本では「日米、日韓」でも、アメリカや韓国なら(日本語で言えば)「米日、韓日」。どちらでもいいではないかと思うのだが、どちらが先頭かは国の威信にとって大切なことらしい。だから、読み間違いも許されない。だが、「寺社、社寺」はかつてはいざ知らず、どちらでも構わないのが現在。「政経、経世」は当事者には大変重要なのだろうが、一般人の多くにはいずれでも大差ない。そんな中で「寺社仏閣、神社仏閣」はどうなるのか。こんな問いをもったのは、私がイチョウについて述べた際、最初「寺社仏閣」と書き、後で「神社仏閣」に訂正したことに起因している。今はいずれの謂い回しも使われているようなのだが…
 まず頭の二文字「寺社」はこの二文字だけで既に寺院と神社の両方を表している。時代劇によく登場するのが「寺社奉行」で、江戸時代には寺院と神社全てを管轄する役割をもっていた。「寺社仏閣」を単純に分解すれば、「寺院、神社、寺院、寺院」で、寺院が三つ、神社が一つの不公平な組み合わせだが、「神社仏閣」は「神社、寺院」で公平なのではないかなどと迷想してしまう。「寺社」は江戸時代までの「仏主神従」の考えによるもので、「社寺」は平安時代から使われていて、神社優先となった明治時代以降に多く使われるようになった(ここの文中でも「神従仏主」ではないだろうし、「寺社」と「社寺」の字の順序が重要になっている)。
 そうなると、仏教と神道の相互関係が気になり出す。神も仏も信仰の対象としては変わりなく、明治に入っての神仏分離令以前は、特に区別する必要がなければ両方含めて扱われることが普通だった。それが神仏習合であり、土着の神道と渡来した仏教が混淆して修験道などが生み出されてきた。本地垂迹説の「権現」は神でも仏でもあり、「神宮寺」は寺でも神社でもあったのだ。
 そうではあっても、語順や字順を無視することは言葉の特徴からそもそもできないのである。言葉のもつ語順や字順という形式的な性質は「線形性」ともったいぶって呼ぶこともできる。発音も文字も線形に並んでいて、先と後や前と後ろが必ず存在する。すると、いずれを先に発音するか、あるいは書くかを決めなければならず、そこに無意識に価値評価が入り込み、普通は重要なものを先にすることになる。こんな平凡な理由が価値判断につながることになる。これも言葉の怖さの一例なのだろう。
 こんな話は老人の閑話なのだが、「男女」、「夫婦」とばかり読んだり、書いたりしないで、時には「女男」、「婦夫」と逆転してみたくなる人が少しは増えるのではないか。