微積分の背後へ(2)

<無限と連続>
 アリストテレスの「連続性」は物理的な対象や変化のもつ連続性だった。この性質をより洗練させるには数学化が不可欠なのだが、アリストテレスにその気はない。
 「微積分の背後へ(1)」で見たように、アリストテレスは無限概念を定義した。アリストテレスは空間や時間,運動という「連続的と思われているもの」を考える際に,「無限」という概念が入り込んでくることを認めた(有限主義の否定)。彼の連続性の定義を既に見たが、その実質的な内容の一つが「無限分割可能性」であり、限りなく分割を続けることができるという性質である。また、アリストテレスは無限概念の曖昧な使い方が不合理を生むことを気遣って、「可能無限」と「実無限」という区別をし、実無限の存在を否定した。「いつまでも分割を続けることができる」という時の「いつまでも」は可能的であり、終わりが来ないことを述べているが、「無限の広さをもった面積」の「無限の広さ」は既に実現した広さを述べている。前者が可能無限、後者が実無限である。可能的で、まだ実現していない無限が可能無限、既に実現した無限が実無限という訳である。
 そこで、次の問いが気になってくる。直線が,無限の部分から構成されているのではないとすれば,直線は一体何から構成されているのか。
 アリストテレスにとっては,連続とは無限分割可能なものである。無限分割可能性は数学的には、二つの異なる分割点をどのように取っても,その間に新たな分割点を取ることができるという性質で、現在は「稠密性 (density)」と呼ばれている。実数の稠密性とは次のような性質のことである。二つの異なる実数を考えたとき、いずれかが他より大きいとすれば、それら二つの数の間には別の実数がある。これは実数だけでなく、有理数無理数も稠密性が成り立つ。ちなみに、実数の稠密性と連続性は別物である。実数の「連続性」は「完備性(completeness)」によって特徴づけられている。
 現在、実数の連続性に関する定理は見事に整理されているが、それらの関係をまとめると、次のようになる。

(1)上限、下限が存在する。
(2)有界な単調数列は収束する。
(3)区間縮小法、あるいはアルキメデスの原理が成り立つ。
(4)Bolzano-Weierstrassの定理が成り立つ。
(5)アルキメデスの原理、コーシーの収束条件が成り立つ。
(6)上限、下限が存在する。

 上の6つの命題について、(n)が(n+1)を含意し、(1)と(6)が同じ命題であるので、各命題は互いに同値である。実数の連続性は、解析学の様々な場面で登場する。
 このような現在の常識を確認した上で、ガリレオがこの常識への長い道のりを一歩踏み出すことからすべてが始まるので、それを垣間見てみよう。 

 ガリレオは原子論を使って物質を統一的に説明したことはないが、原子概念を使って幾つかの自然現象を説明している。例えば、物体が膨張できる理由は次のように説明される。物体がサイズのない無限の原子からなり、この無限の原子のあいだにサイズのない無限の空虚が挿入されることによって、物体を構成する原子が分散され、その結果、物体が膨張するのである。
 物体の凝縮や膨張を説明するだけなら、原子の数を無限にしたり、その大きさをゼロにしたりする必要はない。ガリレオがこのように考えたのは、物理世界が数学的構造をもつと考えていたからである。それを文字通りに受け取るなら、物理世界の最小単位は数学の点のように考えなければならなくなる。点が大きさを持たず不可分であり、有限の長さの線のうちに無限に含まれているように、原子も大きさを持たず不可分であり、有限の大きさの物体のうちに無限に含まれていることになる。
 無数の不可分者から連続体が構成される(つまり、点から線が構成される)という考えは、ガリレオの運動論にも登場する。ある瞬間の「速さの度合い」のことを彼は「不可分者(indivisibile)」と呼ぶ。そして、無限に分割できる時間の各瞬間に対応する無限の数の速さの度合いがあると彼は言うのである。だが、ガリレオはここから無数の速さの度合いを集めた物理量が何であるかを導出することはできなかった。それには「極限(limit)」概念が必要で、ガリレオはまだそれを手にしていなかった。
 だから、原子(=不可分者、数学的な点)は連続体の構成要素でありながら、原子と連続体を結びつけることがガリレオにはできなかった。これは「世界は厳密な数学的構造をもっているのか」という、ガリレオに突きつけられ、彼自身も自問自答していた問いがもたらす困難の元凶であった。にもかかわらず、彼は世界が数学的構造をもつことを確信していた。世界が数学的に構築されていると論証することは無理でも、少なくとも実験によって現実世界で数学的法則を実現することができる。これだけでガリレオを確信させるに十分であった。この信念に導かれて、ガリレオは大きさを持たない、無数に存在する不可分者としての原子を信じたのである。
 『偽金鑑識官』(1621)の中で、自然という書物は数字と幾何学的図形によって書かれていると述べ,ガリレオは自然現象を数学的に探求することを提唱した。これは近代科学のマニフェストであり、それが後世フッサールの批判の対象になったことでも有名である。晩年の『新科学論議』(1638)で落下法則を定式化し、投射体軌道を数学的に決定することによって,法則を数学的に定式化することと、精密な測定によって実験的に確証すること、これら二つの近代物理学の核心そのものを提示している。さらに、すべての自然現象を原子の運動に還元する機械論的自然観が主張されている。物体の性質は、長さ、重さ、運動のような物体の一次性質と、味、匂い、色のように感覚が生み出す二次性質に分けられ、一次性質が物体の真の属性であるのに対して、二次性質は感覚に引き起こされた心理的なものと彼は考えた。
 ガリレイは『新科学論議』で綱や木材のような繊維からなる構造を持たない物体の凝集力の問題を扱い、それらが引っ張りに対して示す抵抗力に関して二つの原因を挙げる。それらは「自然が真空を認めることに対して持つ嫌悪」と「物体を構成する粒子を固く結合している膠あるいは粘性を持つもの、糊」である。真空に対する嫌悪はアリストテレス以来主張されてきたものであるが、ガリレオはその大きさを実験によって検討し、それだけでは物体の凝集力を説明するには不十分であることを指摘し、むしろ第二の「物体の諸部分を結合する膠あるいは粘性をもつもの」の方が重要と述べる。二つの板を引き離す例を用いて、各部分を結合している力はその微小部分の凝集力から生じると主張されている。
 さらにガリレオは、物体の凝集と膨張を説明するために有限な大きさの中に無数の真空が存在できることを説明する。「連続した有限な延長に無数の空虚があることが矛盾しない」ことの説明のために、彼は「アリストテレスの輪」という例を挙げている。
 「アリストテレスの輪」は、ルネサンスにはアリストテレスの著作と考えられていた『機械学』の中にある問題で、当時の数学者が無限を論じる際によく取り上げたものである。その問題とは、同心状の2つの輪を平面上で転がす際に、一回転し終わったときに、小さい方の円周は大きい方の円周よりも短いにも関わらず、両方の円の中心が同じ距離だけ移動しているのはなぜかというものである。
 まず同心状の2つの正六角形を考え、1つの角(60度)だけ回転させる。このとき、小さい方の六角形の辺は、2つの六角形の辺の差だけジャンプする。また2つの六角形の共通の中心Gは大きな六角形の辺の分だけジャンプする。次に、円を無数の辺からなる多角形と考えると、1つの角だけ回転したときに、小さな多角形の辺がジャンプする長さは減少するが、全体が1回転するための回転数は増大し、結局ジャンプの総和は大きな多角形の周と小さな多角形の周の差になる。円の場合には、小円はもはやジャンプせず、その円周上の各点はCE上を滑っていき、中心もAD上を滑っていく。
 こうして、ガリレオは線分が「大きさのない部分、すなわちその無数の不可分者」から構成されているので、その間に「無数の空虚な空間」を挿入することによって線分を引き延ばすことが可能になると主張する。
 私たちから見れば、無限への移行は有限量に対して極限操作が必要なので、辺の数が増大していくのに従って各辺の長さは減小していくが、たとえ微小でも有限な値を持っている。無限小は,極限操作によって得られる可能的な存在である。それに対して、ガリレオが「大きさのない部分、すなわちその無数の不可分者」と述べる際には、無限量を現実的な存在と前提して、有限量の極限としてではなく、有限量とは別のレベルの量として捉えている。彼は有限量と無限量との間に一種の飛躍を認め、二つの量の間には埋めることのできない論理的飛躍が存在していると考えていた。
 ガリレオによれば、平面や立体も同じ様に「無数の大きさのない原子」から構成されており、それらの間にやはり「無数の大きさのない空虚」を挿入することによって、物質はより広い空間を占めるように引き延ばすことができる。また、「連続なもの」は、無数の「大きさのない部分」や「大きさのない原子」、つまり「不可分者」から構成されている。有限な延長において無限の分割が可能ということは、それを構成する部分は大きさのないものでなければならない。もし部分が大きさを持つとするならば、無数の部分は無限の延長を作ることになるだろう。このようなガリレオの原子論、無限に関する議論は特異なものであって、彼の「不可分者」の概念は、有限量の極限として存在する無限小量とは違っている。
 「不可分者」という概念は、中世ではギリシア語の「アトモス」(atomos)、すなわち「分割されないもの」の訳語として用いられていた。中世になると、アリストテレスが『自然学』で触れていた無限論が取り上げられ、無限概念がもたらす様々な問題が論じられた。その中の重要な課題の一つに、連続的なものが不可分なもの、つまり原子から構成されるという原子論者の主張に対する批判があった。哲学者たちは、アリストテレスの主張を強化するために数学的な議論を援用した。例えば、ユークリッドの『原論』を使って、幾何学的世界における点と物理的世界における原子を類比的に捉えて、大きさのない点=原子から有限の大きさを持つ連続的なものは構成され得ない、と主張している。