コイン投げは確定的か、それとも確率的か(4)

8そしてミクロな世界で…
 これまで述べてきたマクロな世界の変化をミクロな世界のそれと比べてみよう。すると、二つの事態が如何に異なるか、量子の世界の特徴を二つ挙げればそれがわかるだろう。

1. 微視的な世界では,物理系の状態の変化が不連続的に起こりうる。
2. その不連続的な変化では、ある状態から移りうる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかが確率的になっている。原因と結果の1対1対応がなくなり、決定論的な因果性が成立しない。状態変化が一意的でないのは私たちの知識がまだ不十分だからではなく、本質的に不確定と考えられている。

 原子論の原子は粒子であるが、その運動は連続的なものと想定されていた。だが、現在は物質の構成単位が離散的なだけでな、その運動も離散的であると考えられている。量子力学の言葉を使えば、このような変化は「ある物理系の状態が別の状態に不連続的に遷移する」と表現されている。
 古典物理学の世界では世界を記述する言葉は粒子の位置と運動量である。だが、量子力学はこれとは違う言葉を使う。それは「状態」で,私たちが注目する対象の様子を表現し、数学的には成分が無限の複素数ベクトルで表現されるものである。ごく一般的な説明をするとすれば、次のようになるだろう。
 「状態」を知れば、それから必要に応じて個々の粒子の位置や運動量の情報を得ることができる。ある水素原子に注目すれば、その中の一つの電子はある特定の「状態」をもっている。そして、この水素原子中の電子の状態は、離散的なエネルギーのものに限られる。それぞれの状態で電子がどこにあるかと聞かれれば、エネルギーの高い状態ほど原子核の陽子から離れて大きく広がっていると答えることになる。しかし、ある瞬間にどこの位置にあるかを知りたいと思うと、マクロな世界とは違う厄介なことが起こる。状態は決まっていても、位置は定まっていない、それもふらふら動き回っていて定まらないのではなく、この定まっていない「状態」が水素原子中の電子の状態そのものなのである。状態は変化でき、水素原子中でエネルギーの違う状態に「遷移する」ことができる。エネルギーの高い状態から低い状態に変わるとき、その差にあたるエネルギーが光として放出される。これと逆の過程が起きるのは、光が先にあって、それを電子が吸収したときである。しかし、あまり大きなエネルギーの光を吸収すると、電子は原子から飛び出してしまい、水素原子はイオン化する。状態間の遷移では、二つの状態のエネルギーは正確に定まっており、そこから出てくる光のエネルギーも正確に決まっている。光のエネルギーE は光の角振動数ω と比例し、E=ηωと書けるので、出てくる光の振動数が正確に定まっている。つまり、原子の初めの状態のエネルギーをEinitial、後の状態のエネルギーをEfinal、とすると出てくる光のエネルギーは、ηω= Einitial − Efinal から決る。いろいろな原子が同じように光を放出するが、そのエネルギー、つまり振動数はそれぞれに定まっている。このように,今までは連続的な量や連続的な変化だと思っていたもののなかに、離散的な値しかとらず離散的な変化しかしない場合があるのである。
 また、原子の世界の周期的な運動が時間そのものなのだから、この運動と離れた時間というものはない。存在するのは時間ではなく、時計なのである。原子や分子の振動を使った現代の時計は、その針の示すものが時間そのものなのである。

9自由と決定への素描:鍵は不連続な反復
 マクロとミクロの世界での確率的でランダムな変化に対する考えを見てきたが、ここではそれらから何が言えるか考えてみよう。決定論的な世界で確率が意味をもつのは認識レベルでしかない、というラプラスの古典的な主観解釈に因んで、古典力学とその拡張と確率は両立せず、異なる領域で成り立つものという考えを古典的立場と呼んでおこう。

初期条件の集合、因果関係
確率過程と帳簿、付随性

コイン投げの落下と着地のプロセスは古典的な決定論的過程である。落ちたコインを拾って再度投げるまでの過程は任意で、時空の制約はない。コイン投げを何度もすることができることが自然で起こる場合と人為的に起こす場合が考えられる。自然に起こる場合とは周期的な変化による場合で、繰り返される毎日や季節の変化が考えられる。私たちの無意識化した習慣などもその一つである。一方、人為的に同じ初期条件を起こすことは私たちの自由意志による。コイン投げ全体の過程は明らかに不連続で、非保存的であり、自然の過程であるだけでなく、人為の介入があっても構わないものである。その介入が私たちの意志による場合、自由と決定という伝統的な問題に切り込む端緒となることができる。
 確率過程は過程というより帳簿に過ぎなく、因果的な記述ではなく、その記述内容の確率の記述である。帳簿は元の過程そのものではなく、異なる過程でも帳簿上は同じことが可能になるようなものである。その意味で帳簿の変化は元の過程に付随している(supervene)と言われる。反復の過程があることによって帳簿が確率過程であることが認識されるのであって、反復していないということになれば、帳簿も確率過程ではなくなる。

 繰り返しの過程や行為が可能であるという前提で、繰り返しを引き起こすところに自由意志が関与できる。というより、繰り返すことを決めなければならない場合が自由意志の存在を強く意識する場合である。自発的に繰り返しが起こる場合、そのシステムが孤立していて保存されているなら、そこには自由の入る余地がないどころか、そのシステムは運命論的に決定されている。その極端な例がラプラスの普遍的決定論であり、普遍的なシステム、つまり、宇宙全体が一つの閉じたシステムとして変化するなら、どこにも介入の余地がないことになる。初期条件が複数あることなど不可能で、何もないか、あっても一つ(ビッグバン)しかなく、それゆえ、その後の系の時間発展は一つしかなく、運命として決まっていることになる。

<反復>
 同じ粒子が多数あるように、同じ過程が多数あるのが反復である。多数の存在が空間的なら生物集団、時間的なら周期的な天体運行などが例となるだろう。同じようなことが繰り返される過程は自然の中にも、私たちの生活の中にも沢山存在している。私たちは自然の中で起こる反復を利用するだけでなく、反復を生活の中で人為的に引き起こすことによって、確固たる知識や技術を確立してきた。変化の中の不変とは反復であるといっても強ち誤ってはいまい。キルケゴールはかつて後ろ向きの追憶としてではなく、前向きに反復を捉え、そこに自由を読み込もうとした。

 反復と追憶(想起)は同一の運動である。ただ方向が反対だという違いだけである。つまり、追憶(想起)されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、本当の反復は前方に向かって追憶(想起)されるのである。(キルケゴール、舛田啓三郎訳『反復』、岩波書店、1956年、p. 8)

この引用を註釈すれば次の様になるのではないか。「反復」が未来志向的な運動であることはどのような意味をもつのか。『反復』において、結婚に踏み切れず苦悩し失踪した青年は、数年後に彼女が結婚したという知らせを聞き反復の存在を確信した。「ぼくはふたたびぼく自身です」と彼が述べるとき、彼は追憶によって不自由にさらされていた自身が再び自由な自分自身に回復したことを喜んだのである。つまり「反復」とは未来において自分自身を回復することと言い換えてもよいだろう。これが「反復」であり、反復はそれが可能なら人を自由にする。
 キルケゴール風の解釈を続けてみよう。反復が自由を実現するのは何も恋愛に限った話ではない。例えば、音楽を演奏するとき、演奏者は一回一回過去の演奏をそのまま繰り返すわけではない。演奏は未来に向けて常に新しいものを孕んでいる。つまり演奏は一回ずつ過去と独立(自由)に新しいもので、これがライブの醍醐味であり、新しい反復である。 反復の可能性は常に前方に開かれている。「全人生は反復である」といわれるとき、それは繰り返しにとらわれた人生の不自由さを嘆いたものではなく、常に前進し創造していく力を目指すものである。
 これまで見てきて、直ぐに気づくのは反復が何かに付随するものの間のパターンであり、それゆえに野放図に反復が設定できる点である。どこにでも生み出せる反復は私たちが習慣や伝統を確立し、秩序の中で生きる大きな力になるが、それが度を超すこともしばしばある。
 因果的、連続的、閉鎖的な過程が決定論的過程であり、不連続的、並列的、開放的な過程がつくる集合が反復であり、それらが組み合わされることによって世界の現象が理解されてきた。私たちの自由意志も反復の存在に結びついて効果をもち、自由と決定の話が整合的に成り立つことになる。この話はまだあくまで青写真に過ぎない。反復が自由と決定の絡まり合いの鍵を握っているとだけ述べておく。
 反復といえばフラクタルを想起する人も多い。フラクタルの特徴は「自己相似」にある。自己相似とは、図形の一部分が全体の縮小図形になっていることで、入れ子の構造とも言われる。パイこね変換でわかるように、引き延ばしと折りたたみの繰り返しによってカオスが生成される。つまり、最初の図形が自分自身の中へ繰り返し写像される。折りたたまれていく図形の全体の大きさは変わらないので、写像は縮小写像となる。つまり、カオスはもともと自己相似の性質をもっていることになり、フラクタルであるのはこのためである。自然の中のフラクタル構造生成の原因には次の3つのメカニズムが考えられている。

不可逆でランダムな成長過程によるもの    (凝集体,結晶成長)
非線形の折りたたみ効果によるもの      (カオス)
平衡系の相転移における臨界現象に基づくもの (相転移,臨界現象)

<反復性とエルゴード性
 同じ人が同じコインを同じ条件で何回も投げ、表が出た回数の平均値が「時間平均」であり、ある時刻に多くの人が一斉に同じコインを投げたときに表が出た人数の平均値が「空間平均」である。同じ人がコインを投げていくうちに、コインが歪んで表と裏の出方が変わるなら、時間平均と空間平均は異なることになる。それが起こらないという仮定、つまり、「時間平均=空間平均」という仮定がエルゴード仮定(性)と呼ばれるものである。
 コインの表か裏かの確率を厳密に求めるには、「全く同じ」コインを「全く同じ」時間に多くの人が投げて、表か裏かが出た人数の平均値を求めなければならない。これは不可能なので、一人の人が一個のコインを何度も投げてある結果が出た回数、つまり、時間平均が正しい確率となる。また、コイン投げの反復での各結果は独立である。前の結果が次の結果に影響を与えるのであれば、エルゴード性が成り立たないことを主張していることになる。エルゴード性の仮定から、時間的な反復は空間的な分布、頻度として測定可能になっている。