コイン投げは確定的か、それとも確率的か(3)

6コイン投げの現在
 コイン投げの物理学について、Fordはそれまでの議論がずっと曖昧であった理由を説明するような、次の文で議論をスタートさせる。

“Probabilistic and deterministic descriptions of macroscopic phenomena have coexisted for centuries.”(Ford, J. (1983), How random is a coin toss? , Physics Today 36(4), 40-47 p.40)

ニュートン決定論的な『プリンキピア』を書いたとき、ベルヌーイは確率に関する数学的な議論を展開していた。マクロな現象についての決定論的記述と確率的記述が両立するかどうかという問題を、コイン投げが確定的なのか、確率的なのかという問題として取り上げ、決定論、非決定論、自由といった哲学的な事柄、そして自然選択と浮動の関係を考え直す契機にしてみよう。その際の基本的な構図を提供する文献はKellerの論文で、その議論の枠組みが現在でも通用しているように思われる(Keller, I. B. (1986), The Probability of Heads, The American Mathematical Monthly, Vol. 93, No. 3, 191-197.)。この構図を示すのが次の文章である。

Why is the outcome of a coin toss random? That is, why is the probability of heads 1/2 for a fair coin? Since the coin toss is a physical phenomenon governed by Newtonian mechanics, the question requires one to link probability and physics via a mathematical and statistical description of the coin’ s motion. (Mahadevan, L. and E. H. Yong (2011), Probability, Physics, and the Coin Toss, Physics Today, July, 66-67.)

 決定論的なコイン投げの結果がなぜランダムと考えられるのか。コイン投げが古典力学の法則と初期条件によって記述できるにも関わらず、なぜコイン投げの結果はランダムなのか。それがランダムなら、どのようにコインが投げられるかに関わらず、なぜ結果が一定の確率をもつようになるのか。最後に、コイン投げの結果に一定の確率があるなら、それはどのように計算できるのか。このような問題が私たちの好奇心をくすぐる。
 コイン投げ研究の現状を振り返っておこう。物理学分野の日本語の文献も含め([水口])、主要な文献では確率過程としてのコイン投げと決定論的なコイン投げがどのように両立するかが考察されている。個々のコイン投げの決定論的な過程は、自由落下過程と衝突過程の二つに分けられ、それがどのように記述できるか考察される。初期条件空間のベイスンが確率的な結果を保証してくれる(十分な時間の経過後、表、裏を表すアトラクターに吸引される初期値の集合のことで、Basinは盆地という意味である)。決定論の立場から考えられるランダム性、蓋然性の起源は、初期条件を与える際の精度とベイスン構造の特徴的な長さとの相対関係にあると考えることができる(確率空間の裏表がどのような理由で与えられ、その確率値の付与に対する数学的な理由がカオス理論等によって説明できる)。
 Kellerによれば、コインの垂直運動の方程式を使って、どの初期条件で表が出て、別のどの初期条件で裏が出るか決めることができる。結果の確率についてKellerは二段階で考える。最初に、初期条件を連続的な確率分布 をもつ確率変数とみなす。すると、この分布から表と裏がそれぞれ0.5の確率で出ることが説明される。コイン投げの研究ではコイン投げの決定論的な過程と表裏の出るチャンスが50%であることが両立する説明がある。二つの考えが両立することの議論は、二つの段階に分けて説明される。

1連続的な確率分布をもつ確率変数としての初期条件
2表と裏が50%であることの極限を使った計算

 Kellerから始まるコイン投げの力学的な説明はほぼ完璧という印象を与える。表か裏という結果を引き起こす初期状態の集合を決めることができ、そこから表か裏への写像が定義されると、ほぼ自動的にそれらの確率が50%であることが計算できる。だが、この力学説を見直すと幾つかの点が浮かび上がってくる。それはマクロな統計的事態に関する事柄である。
 確率分布の存在は純粋に決定論的な立場からはどこからも入ってこないし、どこへも出ていかない。確率分布の導入はad hocで、力学的観点からは出てこない。さらに、この分布は何の分布なのか不明のままである。何についての分布、何についての頻度なのかは、「何についての確率なのか」という問いにつながっている。いずれも力学的な観点からは出てこない「確率の志向性」に関わるものである。力学は分布の存在そのものを説明できない。Kellerは分布の数学的問題に対して極限を使った論証で扱うが、そこに登場する極限は実際のコイン投げとは何の関連もない、ということである。図の白と黒の分布領域を正当化する手立ては力学にはない。

 以上の物理学的なコイン投げの話は巧みに出来上がっているが、表題の問いについては十分な解決にはなっていない。コイン投げが古典力学に従う決定論的な過程であるという説明と、コイン投げの結果がランダムで確率的な予測に従うという説明が両立するような状況がいかにして可能かを一見説明しているように思われるかもしれないが、確率的、不確定的、ランダムであることの説明は「繰り返し投げられるコイン」という前提によって支えられており、そこでの「繰り返し、反復」ということがなぜ起こるのか、どのように起こるのかの説明がこれまでの議論の中には見当たらないのである。そこで、この点を中心に再考してみよう。
7リンゴの落下からコイン投げへ
 リンゴの落下そのものを確率的なプロセスだと考える人はまずいない。だが、コイン投げとなれば、すぐにその確率モデルを想像するのではないか。リンゴとコインのどこを見比べても、それらの間に古典的な決定論的過程とランダムな確率的過程の違いを見出すことはできそうもない。サイコロと普通の立方体の場合も似たようなものである。リンゴが着地する状態が二つに分割できる、例えば、表面に書いた文字が見えるかどうかで二分できれば、コイン投げと同じことになるのではないか。しかし、誰も何度もリンゴを落とし続けないし、リンゴの落下は典型的な自由落下であるとみなされてきた。
 何度も投げることができることによって、投げる際の初期条件の集合を想定することができる。何度も投げることを時系列に従って1回毎に線形に並べれば、それは決定論的な因果的過程とみなせるのだろうか?それは明らかに不連続な過程となるだろう。例えば、コインを投げ、表が出て、次に投げるまでの間はどのような因果過程となるのか。地面に落ちたコインを拾い、再度投げる準備をする過程はどのように記述できるのか。これらの過程はコイン投げ自体とは連続しておらず、コイン投げの繰り返しを考える場合、コインが投げられればよいという以外の条件は何もついていない。次のコイン投げが一日後だろうと半年後だろうと一向に構わない。3回目を東京で、4回目を大阪で投げても文句は出ない。コインが投げられるときには必ず同じ条件で投げられる、というだけで十分ということになっている。次のコイン投げの初期条件がどのように決まるか、いつ決まるかは初期条件空間をつくる際には考慮する必要のないものである。連続的であることが二つの異なる意味を含んでいることがこの文章から明らかになるだろう。実数が連続的という意味での連続と、出来事が途切れることなく続くという意味での連続である。
 投げられたコインを拾う過程とそれを投げる過程が連続しているなら、コイン投げはマクロな因果的過程の一部として存在し、それゆえ決定論的になる。コイン投げの過程の連続性と、他からその過程への介入がないことが保証され、それゆえ、閉じた過程であれば、その過程に登場する物理量は当然ながら保存されることになる。連続的なコイン投げの文字通りの物理的な実現は、保存性、連続性、閉鎖性が密接に結びついていることを示してくれる。保存的、連続的、閉鎖的な変化の中に「繰り返し」を見出すこと、挿入することはできず、それゆえ、コイン投げやその結果の頻度や分布といった表現は意味をなさないことになる(世界全体の繰り返しではないので、ポアンカレ再帰定理を思い起こす必要はない)。これら条件を満たす因果過程に全く同じ繰り返しの過程は存在せず、一つの過程の一部に類似した過程、単なるパターンがあるように見えるということでしかない。
 コイン投げが確率的、ランダムなのは、初期条件集合が表裏のランダムな分布を説明するからではなく、単にそのような初期条件集合が私たちに確率的な結果を生み出すと誤解させることに過ぎない。初期条件集合が表裏のアトラクターに吸引されるベイスンとなっていることが確率的であることの根拠だとすれば、その初期条件の一つ一つが実現しなければならないが、その保証など実はどこにもないのである。
 いずれにしろ、これまでの力学的モデルによるコイン投げは、なぜコイン投げが確率的なのかを十分に説明しているようには見えない。それどころか、確率的なコイン投げは不可能ということを強く示唆しているようにさえ見える。
 マクロな世界で個々の出来事や状態が確率的に起こることは不可能、これが私たちの健全で、常識的な判断で、ラプラスの判断でもある。そこにランダムな現象の存在を見出そうとすれば、マクロな世界が、一つの連続した、単純な因果的過程ではなく、神話や物語がもつプロット付きの因果過程、不連続で、分岐的な因果過程を含むものであることを認めなければならない。なぜなら、現実離れし、俯瞰的な見方をすることによって、複数の因果過程を対象にした確率モデルを構成できるからだけでなく、そのモデルがランダムな現象を説明できることを経験的に確かめることもできるからである。
 物語は確率的な要素を含めることができる余地をもっている。因果性に固執した過程だけでなく、不連続的に話を打ち切り、別のシーンへと移り、新たな過程をスタートさせることが自由にできる、それが物語であり、物語で描かれる世界である。物語のプロットの存在は出来事や状態の不連続性、それらの組み換えを前提にしている。
 私たちが理解する世界の因果的な時間発展はプロットを含む、つまり、不連続な初期条件の存在を認める。私たち自身が因果的な過程をスタートさせること、打ち切ることができるような世界に私たちは住んでいる。だが、物語のプロットが一切なく、物理的な自然の因果過程が一つだけあるというのが古典力学のモデルである。