風景を閉じ込め、所有する欲望

 「思想の視覚化」と言えば、「造園」を指す洒落た謂い回しになるだろう。真善美の中の美に重きを置いて思想内容を実現すると、それは風景として実現されることになり、それを成し遂げるのが庭園である。庭園は美学的な思想の具体的な実現ということになる。それゆえ、造園は科学とも工学とも違う特異な面をもつことになる。世界を客観的に分析するだけでなく、理想の風景をつくり、さらにその美を楽しむのである。自然の花にも風景にも私たちが様々に介入して、それらをアレンジし、変形することができる。そのようにして享受される風景がつくり上げられ、その定番が庭園である。さらに、その庭園を造る造園作業は人に精神的、そして肉体的な快楽、さらには経済的なメリットももたらすのである。
 ところで、衣食住を支える欲望は美の追求と所有の両方に対して貪欲で、風景や景観は理想の楽園の重要な構成要素になってきた。神話や物語に登場する風景はしばしば決定的な役割を演じ、さらに宗教につながっていた。天国、地獄、極楽等の風景はこの世の風景ではなく、いわば観念的な風景であるにもかかわらず、私たちの心に大きな影響を与えてきた。また、地上の風景は知覚される対象、描かれる対象として子細に観察され、描写だけでなく自然の解明につながるという歴史をもってきた。「風景、景色」、「世界、宇宙」、「知る、見る」と言う三種類の語彙群を比べると、面白いことがわかってくる。風景は知るのではなく、見られるのである。世界は見るのではなく、知られるのである。
 「見えるものは何か」、「何を見たいか」という問いを比べてみよう。前者は科学的な問いの典型であり、後者は日常の当たり前の問いである。これら二つは異なる問いで、科学と造園の違いを見事に表している。科学は「見えるものは何か」に答えなければならないが、造園は「何を見たいか」を実現しなければならない。
 見ているものがもつ本質は見えていないのが普通だが、風景の本性は見えているものの中になければならない。美しい風景の美しさは見えていないものが原因であっても、見えているものを組み合わせて実現しなければならない。
 庭園の何に感動するのか。幾何学的なヨーロッパの庭園、禅宗の小宇宙的な庭園、仏教の浄土を表現したような庭園等々、沢山の種類がある庭園はそれぞれ違った趣向で私たちを惹きつける。自然のコピーから理想の風景まで造園の趣向は広範で、都市の景観にまで影響を与えている。
 風景は経験され、理解され、それゆえに与えられるだけでなく、つくることもできる。そして、つくられた風景の典型が庭園。私たちは景色のすばらしさに感動し、それを宗教や芸術で表現し、再現してきた。日常の風景から死後の風景まで私たちの想像力はあらゆる領域を駆け巡る。
 風景を所有したい欲望は庭園に結実する。風景とは何かを理解するには庭園を考えてみる必要がある。すると、その材料として浮かび上がってくるのが三人の短編であり、一人の絵画である。ポー、谷崎、乱歩、そしてマグリットである。順序を逆にして、最初にマグリットを見ておこう。次にポー、そして谷崎、乱歩の順に眺めてみよう。
 「アルンハイムの地所」はルネ・マグリットの作品(群)でもある。制作年は1938年から1962年。マグリットは1938年、1948年、1949年、1962年に描き、中でも1962年のものがよく知られている(62年の油絵だけでも3枚ある)。ポーの「アルンハイムの地所」のイメージで描いたとマグリットの書簡にあるが、小説の内容とは関係なく、それがマグリットらしい。何枚もの絵を長期間描き続けたことは、マグリットがポーの作品の何に触発されたのか無性に知りたくなる。猛禽類の頭部のような形をした岩山が他のゴツゴツした山の合間に見渡せ、その上空には三日月が輝いている。そして手前には卵の入った鳥の巣が置いてある。この三者が一直線上に存在するため見るものには卵、そして山の形の猛禽類の頭部、月へと視線と思考が素直に移動する。この三者のバランスがあまりにもよいので一瞬、ノーマルな風景ではないかと錯覚してしまいそうなほどである。 正常な風景に見え隠れする異様な部分、実は猛禽類の頭部の山も卵の入った鳥の巣も静かでシンプルな風景の部分として共存している。
 マグリットの「アルンハイムの地所」からポーの作品を想像してはいけない。どの絵もポーの作品の挿絵にはなりそうもない。そこで、まずポーの「アルンハイムの地所」(新潮社、世界文学全集、谷崎清二訳)の風景描写を読んでいただきたい。
「船はその中へすべりこみ、急速力で下って大きな円形劇場へ着く。その周囲にはほの紫の山々が一面立ち並んで、長い裾を残る隈なく輝く河波に洗はせてゐる。忽ちアルンハイムの楽園の全景が眼前にひらける。(中略)高いなよやかな東洋の樹木や、鬱蒼たる灌木や、金色や、深紅色の小鳥の群れや、百合で縁を囲まれた湖や、菫、鬱金香、雛罌粟(ひなげし)、風信子(ヒヤシンス)、月下香等が生い茂った牧場や、金色の小川の長い、入り乱れた線やが、夢のように縺れ合って眼に映る。そして雑然とした是等の事物の中に半ゴシック風で、半サラセン風の大きな建物が聳え立って、奇蹟のやうに中央に止まってゐ
る。無数の張り出し窓や、長櫓や尖塔は、眞紅な日光に照り輝き、恰も氣仙(シルフ)や、妖精(フェアリー)や、魔神(ジニー)や、侏儒(ノーム)やが力を協せて作り出した幻の楼閣のやうに見える。」
 そして、次は谷崎潤一郎の「金色の死」(谷崎が失敗作と考えたこの作品を論じたのが三島由紀夫。三島は「金色の死」を使って自分自身を語っている)。
「東京を西に距ること数十里の、相州箱根山の頂上に近い、仙石原から乙女峠へ通う山路を少し左へ外れた盆地(テーブルランド)で、蘆の湖畔に臨んだ風光明媚な一郭の地面を二万坪ばかり買い求めた上、彼は俄かに大土木を起こしました。田を埋め、畑を潰し、林を除き、池を掘り、噴水を作り、丘を築き、日々数百人の人夫を使役して、彼は自分の設計に係る芸術の天国を作り出そうと努力し始めました。第一に清冽な湖水の水を邸内深く引き込んで、翠緑滴るばかりなる丘と丘との間に漂茫たる入江を湛えさせ、其処にはセイリングやゴンドラや龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)や、種々様々の扁舟をさながら美しい港の如く浮べさせます。(中略)さて、此の千態万状を極めた山水の勝景に拠って古今東西の様式の粋を萃めた幾棟の建築物が建てられるのです。突兀としてちく立して居る南画風の奇峰の頂辺には、遊仙窟の詩を想い出すような支那流の楼閣が聳え、繚乱たる花園の噴水の周囲には希臘式の四角な殿堂が石の円柱を繞らし、湖に突き出た岬の一角には藤原時代の釣殿が水に近く勾欄を横え、風を遮る森林の奥には羅馬時代の大理石造の浴室が沸々として珠玉のような湯を漲らせます。」
 風景を述べた二つの文章はそれぞれ(私には到底書けない)見事な描写になっているが、これだけでは二つの作品の違いがまるで見えてこない。それぞれの作品の主題や背景を暫し考えてみよう。まずは「アルンハイムの地所」。
 主人公エリソンは容姿・頭脳・家柄・財産に恵まれ、祖先の莫大な財産を相続。詩的な心を持つ彼は、新奇な美の創造に取りかかる。エリソンは「造園家を詩人に数えることはこれまでなかったが、これこそ新奇な美の創造にふさわしい領域だ」と考えた。そして、彼の芸術論がつづく。自然の造形は至高のものだが、風景の配置だけは改善の余地がある、本来完璧なものが配置されるはずだったが、地質的変動でくじかれてしまった、その混乱を静めるのが芸術の精神だ、と述べられる。エリソンはそれを補足し、完璧な地上は不死なる人間のため設計されていた、だが人間はそうならなかった、地上の混乱は、後になって考え出された「人間の死の状態」のための、準備(前兆)ではないか、と言う。
 私たちが絶景だと思っても、それは主観的な観点から見てそうなのかもしれない。遥か遠くから眺望できる存在、地の天使から見れば、混乱も秩序に見えるのかも知れない。両半球の広大な風景も、そういう存在のために配列されたのかも知れない。そして、地上の景色が不完全なのは死者のための準備だからで、その不完全さは、死者にとっては完全に見えるかもしれない、ということになる。「地の天使」、死者が見ている世界を、生者が眺めることができるように(死者が感じる完全と等しく、生者が完全と感じるように)創り上げたのが、このアルンハイムの地所で、それは正に死後の完全な世界。
 「厭離穢土・欣求浄土」と染抜きして旗印にしたのは家康。ただ一心に極楽を欣求し、早くこの世の忌まわしい厭離穢土すなわちこの世の厭な穢土を離れて一日でも早く、極楽へ行きたい。と民衆の士気を高め、死ぬことを歓喜に変えて戦をしたのである。ここに登場する「穢土、浄土」、さらには「天国、地獄」はどのような風景なのか。手短にまとめておこう
<天国>
 天国となればキリスト教だが、正しくは神の国と言うべきだろう。新約聖書には天国(Kingdom of Heaven)は一回だけで、他は全て神の国(Kingdom of God)。キリスト教を生んだユダヤ教神の国は、国や領土を指すのではなく、神の支配を表現したものだった。だから、キリスト教神の国も、神の霊的支配がなされるという意味である。
 キリストは、神の国の到来を宣教しながら数々の奇跡を起こす。病気の人を治癒させたり、身体に障害のある人を治癒させたり、死者を復活させたり、様々な跡を起こしている。このような奇跡は、既に神がこの世に到来していることを示し、神の国になりつつあることを暗示している。だが、まだ完全な神の国ではない。というのも、神の国になることを拒む人々がいるからである。神の国が完成するのはこの世の終わりのとき。その時、この世は神の国になる。この完成した神の国が天国。
<極楽>
 仏教では仏の国を仏国土と呼ぶ。この仏国土は煩悩や汚れのない清らからところなので、浄土と言われる。キリスト教と違って、仏教には沢山の仏がいる。そして、その仏の数だけ仏国土、すなわち浄土がある。例えば、阿弥陀仏は西方に極楽世界という浄土を持っている。また、薬師仏は東方に浄瑠璃世界という浄土を持ち、毘盧舎那仏は宇宙の中心に蓮華蔵世界という浄土を持っている。私たちは、浄土と言えば阿弥陀仏の極楽をすぐ思い浮かべるため、浄土と言えば極楽と思いがちだが、極楽は浄土の一つに過ぎない。
 仏教にはこの浄土とは別に天界がある。仏教では、全ての生き物は輪廻転生すると考える。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人の六つが輪廻転生の世界。このうち天人が住んでいるのが天界。天人は非常に長寿だが、それでも寿命がある。天人でも死ぬとまた地獄から餓鬼へと回る。これが六道輪廻で、仏陀の教えを正しく悟れば、この六道輪廻を脱し、浄土に行くことができる。天人の住むところ天界は輪廻の輪の中にあるが、悟りを得た仏の住む浄土は輪廻の輪の外にある。

 これは約1年前の文章。これをもとに、「風景の所有」とはどのようなことかを次に考えてみよう。