好奇心旺盛な子供の疑問、あるいは禁断の疑問への大人の補足

 個人や個体を中心に生物世界を考えるのは、個人主義によって支えられる近代社会では当たり前のことであって、その思想はダーウィンにも色濃く表れています。自然選択(natural selection)は個体に働くのであって、組織や集団に働くのではないというのがダーウィンの基本的な立場です。個体が選択の働く単位になっているのです。一方、性選択(sexual selection)はダーウィンにとって自然選択とは違った選択でした。ダーウィンには性選択が働くのも個体でしたが、それゆえに自然選択とは違う働き方が想定され、別の概念として捉えられたのです。確かに、「生存」と「生殖」は多くの点で異なる生命現象です。生きることと子供をつくることは微妙に異なるのです。「生きていないと子供はつくれませんが、子供をつくらないと生き残ることはできません」と言われた時、前者の主語は個体ですが、後者の主語は集団です。戦前までの日本は家中心の社会でしたが、集団を家に置き換えればその違いが実感できるでしょう。生存は一個体でも可能ですが、生殖は一個体ではできません。これは有性生殖のもつ基本的な特徴なのです。
 このように個体の生存と集団内の生殖を上述のダーウィンとは違って、二つは異なるレベルの視点から捉えた生物世界だと割り切ってみることも可能です。選択は複数の異なるレベルの対象に働き、異なる結果をもたらすという捉え方で、階層的に生物世界を捉える見方として20世紀に常識になるものです。個体レベルと集団レベルは異なるレベルであり、その異なるレベルに選択が働くという訳です。中でも一世を風靡したのがドーキンスの考えで、個体や集団ではなく、DNAを中心のレベルにした見方でした。分子遺伝学の台頭とも相俟って、DNA中心に生命現象を捉えることは単なる流行ではなく、生物学の実際の研究方法として当たり前になるのです。「ニワトリかタマゴか」といういずれの単位が因果的に原因なのかという哲学的な問いは、個体でもその卵でも、ましてや集団でもなく、DNAだと決着がついたのです。事態はそれによってスッキリしたのですが、人という個体のもつ自我や、意識といったものの存在を消し去ってしまうことになったのです。自我のDNAがあったにしても、それは自我ではなく、自我になる萌芽、種子に過ぎません。
 自我や意識が還元されてしまったDNAレベルでは個体と集団は擬似的レベルに過ぎなく、いわば砂上の楼閣であり、自我や意識はどこにもありません。ですから、私たちが「自ら生き永らえることと自らが属す共同体の持続のいずれを選ぶか」と自問自答するとき、何に頼ってその答えを見出したらよいか暗中模索しなければならなくなるのです。人それぞれに答えを見つけることになるのですが、その際に生物学、医学は何を教えてくれるのかを私たち自身がわからないのです。
 複数の対象を異なる複数の見方によって別々に捉えることは珍しいことではなく、物理現象でもミクロなレベル、日常のレベル、マクロなレベルで異なる物理理論が使われます。それと同様に、生命現象でも異なる理論が使われても何ら不思議ではありません。異なる理論が両立しない主張をもつことは物理現象でも生命現象でも同じです。ですから、個体と集団のいずれを優先するかは理論によって異なることになります。となると、いずれの理論を優先するかが問題の解決だということになるのですが、誰もこの分別臭い、暫定的な答えに満足はしない筈です。
 結局、大人は分別をもっている限り、個人の生存と集団の持続のいずれをどのように優先するかに対して、状況依存型の局所的な解答しか出せない、ということになり、これが大人の頼りない補足なのです。