決定論

[力学的な決定論
 どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の主張である。この形而上学的な主張はニュートンの力学によって、物理世界の決定論として精巧に具体化された。ニュートン決定論の洗練された表現はラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)によって見事に与えられた。ラプラス決定論は、すべての事象は原理上決定されていて、正確に予測できるという普遍的決定論(Universal Determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測、予言を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?私たちが自らの予言を破ることができることを考えれば、予言破りは決定論破りであることがわかるだろう)。それゆえ、「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している(実在論)。それゆえ、確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では何の意味ももっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方しか成立しておらず、事象が起きるなら確率1で起き、起きないならその確率は0である。
 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活に馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な決定論が正しいとしたら、公平なコインを投げた場合の表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。このような疑問に答えるためにラプラスの魔物に登場願おう。
ラプラスの魔物]
 ラプラスが生み出した魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それが結果にどのようなバイアスを生むかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。バイアスとは、裏ではなく表が出た原因、表ではなく裏が出た原因である。これは筋の通った話に思える。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例と考えることができるからである。対称性の原理を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理的な法則を使って行うことができる。

(問)バイアスのないコイン、バイアスのないコイン投げとはどのようなコイン、コイン投げでしょうか。

 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができることになる。つまり、魔物にはコイン投げの過程は全く決定論的なのである。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになり、確率の使用を主張・擁護するのは誤っていることになる。
 この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要であるが、それは私たちが十分な知識をもつことができないために過ぎない。これが確率の古典的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。これがラプラスの魔物の主張である。
 さらに、現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論する。対象の変化を述べる現象的な法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればつくれる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の主張である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。

(問)身長や体重の測定で生じる誤差と、コイン投げの確率を比べて、結果の系列や頻度に関して、二つの共通点を挙げてみよう。

決定論と予測可能性]
 ラプラスの魔物は、初期状態を正確に測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。

(問)「ラプラスの魔物は、決定論を認識論化して、予測可能性に置き換えた」という謂い回しが何を意味しているか、自分の言葉で説明しなさい。

決定論と運命論]
 このような魔物の主張は私たちの行為にも当てはまるのだろうか。人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論(Fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。(したがって、この節のタイトルは運命論でもよかったのかもしれない。)決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係に決まっているというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力なことを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

(問)あなたが「これから(問)を考え、答えを出す」には決定論がどうして必要なのだろうか。その際、運命論が成立していると「これから(問)を考え、答えを出す」必要はあるのだろうか。

 ラプラスのような決定論的自然観を今の私たちはもっているだろうか。原理上その通りと答える人であっても、その原理は実現できないと考えていないだろうか。決定論的自然観は古典力学の一つの解釈に過ぎない。