秋(8):ヒガンバナ

 ヒガンバナ彼岸花リコリス)の別名はサンスクリット語由来の曼珠沙華マンジュシャゲ)。日本中に見られるが、自生ではなく、中国から渡来した。稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入していたと言われている。また、有毒な鱗茎は適切に用いれば薬になる。人里に生育し、田畑の周辺や堤防などに見られる。特に、田畑の縁に沿って列をなして花が咲く時は見事な景観となる(昨今はヒガンバナの群生地が観光地になっている)。日本では水田の畦や墓地に多く見られるが、その目的は田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避けるためであり、墓地の場合は死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐためである。
 シロバナマンジュシャゲヒガンバナの色違いのような白い花を咲かせる。花弁がさほど反り返らず、またやや黄色みを帯びる。葉もやや幅広い。
 ところで、彼岸と此岸はどのように違うのか。「彼岸 = 浄土」であり、仏教では彼岸は西方にある、と考えられてきた。一方、「此岸 = 現世」であり、私たちが住む世俗の世界である。春の彼岸は3月の春分の日を中日として前後3日間の計7日間、秋の彼岸は9月の秋分の日を中日として前後3日間の計7日間である。
 「彼岸」は本来仏教用語であり、煩悩を脱した悟りの境地を意味している。煩悩とは、心身を悩ませ、乱し、煩わせ、汚す、悟りの境地を妨げるあらゆる心的な働きのこと。さらに、三途の川をはさんで、私たちが住む世界を此岸、そして向こう側の仏の世界が彼岸である。私たち人間の迷いや苦しみを生み出す煩悩のない、悟りの境地に達した世界が彼岸であり、それは極楽浄土のことである。
 春分の日秋分の日の中日は太陽が真東から出て真西に沈むため、この日に沈む太陽を拝むことは西にある極楽浄土に向かって拝むことになる。「彼岸」という言葉はサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」の漢訳「到彼岸」の省略形。サンスクリット語の「パーラミター」は完成する、成就するという意味。その意味が転じて、仏教修行において達成されるべきものを示すようになった。『般若心経』にある「般若波羅蜜多」の「波羅蜜多」が「パーラミター」のことであり、悟りの境地に達すること、またはそのために積むべき修行という意味である。
 この仏教思想が、日本人古来の風習や自然観、そして先祖崇拝と結びついていくことによって、彼岸に先祖を供養するという日本独自の風習が生まれ、この期間に多くの寺院が彼岸会の法要を行うようになった。この彼岸会は浄土教の影響を強く受けて、平安時代の中頃に始まった。

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