物理学と生物学での正常、異常

 まず、正常や異常の区別のない物理学でのモデル、それも簡単な古典力学のモデルを考えてみよう。そもそもなぜ力学モデルには正常や異常の区別がないのだろうか。この問いに対して、異常なものは力学法則に違反し、力学法則は普遍的であるから、異常なものは存在し得ないというのが普通の答えであろう。力学法則の普遍性が正常、異常の区別の存在を否定するのである。この説明は一見説得力があるように見える。しかし、二つ以上の異なる自然法則があり、境界条件等の違いによってその適用範囲が異なるなら、一方の法則に従うものを正常、他方の法則に従うものを異常と呼んではいけないのだろうか。粒子と波は異なる法則に従う。粒子は波の異常な形態なのか、あるいは波は粒子の異常な形態なのか。この問いに対する常識的な答えは、対象に関する多元論である。波と粒子を異なる対象として共に認めるならば、波は波の法則に、粒子は粒子の法則に従い、正常、異常の区別は「異なる対象には異なる法則を」という多元論のモットーに従って回避されることになる。そして、同一の存在論的なカテゴリーの中では正常、異常がないことも保たれる。粒子と波が異なる法則を要求しても、それらは二元論という棲み分けによって両立する。粒子は波と異なるが、粒子の中では正常、異常の区別はなく、これは波についても然りである。
 多元論の導入は物理学では普通のことのように見えるが、これが決して十分な解決でないことは物理学自身の統一理論(unified theory)への試みがその端的な証拠となっている。この理論は異なる力を統一して普遍的な説明を求めようとしている。物理現象に対する統一的な説明は物理法則の普遍的な適用によってなされ、その適用は対象の一元論を要求するのである。つまり、「異なる対象には異なる法則を」ではなく、「どんな対象にも同じ法則を」が求められている。

<現在の物理学の多元論的棲み分け>
量子力学                        原子とその内部に関する物理学、物質の基本理論
古典物理学                    私たちが経験できる領域に関する物理学
特殊相対性理論             高速度に関する物理学、時空の理論
一般相対性理論            強い重力場や宇宙的スケールの現象についての理論、時空の理論

 では、物理法則に関して同じカテゴリー内で正常、異常の区別の可能性が考えられないのはどのような理由からなのか。同じ物理量の組について二つ以上の理論がつくられたら、一つだけが生き残るか、あるいは総合されて一つの理論になり、その結果、理論の主張は一つの自然法則にまとめられ、同じ種類の対象について二つ以上の異なる内容の法則が成立することはないからである。これは正常、異常の区別が存在しないことの極めて強い理由である。では、原子は正常と異常の区別ができるか。原子は物理量の違い以外は同じであり、物理学では物理量以外の性質は不問に付されている。物理量は変化し、原子を根本的に区別するものではないと考えられている。したがって、物理量を除いた原子は基本的に皆正常である。その理由は皆同一であるからである。

(問)古典力学相対性理論量子力学は互いに両立しない理論であり、それゆえいずれか二つが共に真になる領域はないのですが、それぞれが正しい物理学の理論として認められているのはどのような理由からでしょうか。三つの理論が適用されている領域がどのような領域かをヒントに考えなさい。

 では、物理学以外の場合はどうか。化合物、細胞、生物個体、生物種と階層的に考えていくと、次第に正常とそれからのずれが説明において必要になってくる。そして、その典型が生物種であり、生物種は一定範囲内の性質の束を共有しているにもかかわらず、種内の個体は皆互いに僅かに異なっている。極端な場合が私たち人間の個人である。例えば、水の分子をみな同じと見なすことに不自然さはないが、人間を含めた生物個体の場合、種内の個体差は歴然と存在し、それを無視することは重大な影響を生む。むしろ、個体差こそが私たちの個体概念の基礎となっている。実際、各個人は他の個人と異なることによってその存在を保っている。これは原子や分子という存在と生物個体や個人とが極めて異なった存在であることを示している。原子や分子は文字通りの意味でユニークな個体ではない。それらはタイプの一例以外の何ものでもなく、酸素原子はタイプ「酸素」の具体例という特徴しかもっていない。部屋に充満する酸素原子はどれも同じ原子であるが、その部屋にいるハエや人間の各個体は皆異なっている。だから、生物個体や個人について正常、異常を考えることに何の不自然さもないのである。皆異なっており、その異なりの分布の中の一定の範囲にあるものが正常、他は異常と判定できるからである。同一の遺伝子をもつ双生児であっても、私たちは彼らを異なる人間と見る。実際、一卵性双生児であっても異なる特徴や性質をもっているし、時には一卵性双生児の一方だけが異常とされる場合すらある。

(問)原子と生物個体の違いをそれぞれの「壊れにくさ」から説明しなさい。また、それをヒントに原子から個人までの個体に対する理解や説明の仕方の違いを挙げてみなさい。

 すると、生物学の法則はあったとすれば、正常なものについての法則なのか、それとも正常、異常の両方についての法則なのか、あるいは、正常なものについての法則と異常なものについての法則が別々に存在するのだろうか。確かに、異常なものを生み出す一定の原因はよく口にされる。アリストテレスの答えは物理学や生物学の法則は正常なものについての法則であるというものである。異常なもの、異常な現象は存在するが、それらは干渉力による例外に過ぎず、最後には排除され、本来的な存在の姿が回復されるのである。アリストテレスの正常モデルは正常な個体に関するモデルであり、異常なものは例外に過ぎない。
 より普遍的な法則を見つけるという考えは上のアリストテレス的な見方から自然に出てくる。例外のある法則は一般化され、例外も説明できるよう求められる。その際、例外を生み出す仕組みや原因より、例外をも含むより包括的な枠組や手法が優先される。選択は正常性が優先権をもつ限り消極的な役割しか演じることができない。その役割はエラーの排除である。エラーの排除そのものはモデルでは表現されない。つまり、選択のモデルはなく、選択は正常モデルを補助するものとして、モデルの外に置かれている。
 ガリレオデカルトニュートンらはアリストテレスの正常モデルの見方を踏襲したが、彼らにとってアリストテレスの物理学は原理的に誤ったものであり、反アリストテレス的な、正しい物理学の構築が彼らの目標であった。しかし、アリストテレスの生物学はこれとは違った状況にあった。確かに、新プラトン主義的に変容されたアリストテレスの生物学はラマルク、ジョフロワ、ダーウィンらにとって克服されるべき誤った生物学であった。だが、これは変容される前の、本来のアリストテレスの生物学を考えるなら事情は全く異なっている。むしろ、キュビエ、フォン・ベアー、オーウェンらは本来のアリストテレスの生物学がフランス革命後も持続されるべきものと考えていた。実際、新古典主義と呼ばれる彼らの生物学は本来のアリストテレスの生物学に従い、それをより精緻にするものでこそあれ、反対するものではなかった。