妙高の生い立ちを垣間見ると…

 歳をとると生まれ故郷が気になるのが人の常だが、故郷に大した想い出をもたない私でもそれなりに故郷が気になり出す。死と生は意外に近いのである。自分の故郷は知っているようで知らないことばかりなのだが、知っていることは子供の頃に経験した事柄ばかりで、故郷についての客観的知識や最新情報など皆無に近い。そんなことへの反省や後悔を込めながら、我が故郷を自己流に振り返ってみた。
(1)新井は在郷町、そして宿場町
 在郷町は中世から近世に、農村部で商品生産の発展に伴って生まれた集落。主要な街道が通る農村では、その街道沿いに形成される場合が多い。ランドマーク(目印)、パス(道)、ノード(結節点)、エッジ(縁)、ディストリクト(地域)の5つが町を構成する要素と言われるが、在郷町が城下町、宿場町、門前町などと決定的に違うのは、町の中心となる施設(城郭・大きな宿場・有力寺社など)がないことで、農村部で自然発生的にできたことを物語っている。城下町などと違い、商工業者のほかに農民が多く在住していることや、都市と農村の性格を併せ持つことも特徴である。
 在郷町の発達には近世期の在方(農村部)における生業の変化があり、近世に在方では米麦栽培のほか養蚕、たばこなどの商品作物が生産され、それによって在郷町が生まれたと考えられている。 私が住んでいた頃は、町場(まちば)に対して、在=いなかの意味で使われていた。
 在郷町は都市的要素と農村的要素が社会的・空間的に混在しながら町を形成するという特質を持つと言われてきた。つまり、農村地帯において、流通の結節点となり街道沿いに商工業が集積した「まち」であり、他農村とは一線を画した存在だった。在郷町として農産物の集散地であり、商工業の中心でもあった。だが、高度経済期を迎え、車社会が到来する頃には、郊外型の大規模店舗が登場し始め、商店数や娯楽施設は減少していく。その結果、多くの在郷町は衰退し、新井も他の在郷町と運命を共にしたのである。
 妙高市の前身の一つが新井(荒井)宿である。新井宿は北国街道と信州の飯山とを結ぶ飯山街道の交差する交通の要所として発展した。現在でも旧街道沿いには古い町屋や東本願寺新井別院、賀茂神社などが点在している。街道から少し離れると延喜式神名帳に記載されている斐太神社や上杉景虎の最期の地となった鮫ヶ尾城、縄文時代から古墳時代までの多くの史跡があり、古くから開けていた地域だとわかる。物資の集積地として早くから開かれていた新井宿は、飯山街道の起点で、信州・江戸への荷物の運搬の拠点としても栄えた。新井の町並みは上・中・下の三町からなり、中心となる中町には本陣(大名・幕府役人などの休憩施設)・町名主宅(村の代表者宅)・高札場(法令を知らせる立て札所)・問屋(宿役人馬の責任者宅)などが軒を列ねていた。元禄14(1701)年から文化6(1809)年の間、幕府代官所の陣屋が置かれ、大崎郷・上板倉郷・下坂倉郷の計97ヵ村総高5万石余を支配していた。また近郷の在郷町として毎月6日・10日・16日・20日・26日・晦日に市が立っていた。
(2)赤倉は温泉町
 江戸時代の温泉開発となれば、赤倉温泉赤倉温泉妙高火山の北地獄谷に湧き出す温泉を引湯してきている。多くある日本の温泉町の一つであるが、その歴史は独特だった。妙高山御神体とする宝蔵院(関山権現)がその温泉の権利をもっていた。安永7年(1778年)に長野県 牟礼村から、天明元年(1781年)には地元の庄屋たちから湯治場の開湯の願いが出された。だが、宝蔵院は神聖な妙高山に俗人が入るのを嫌い、さらに享保12年(1727年)にすでに開湯していた関温泉から入る冥加金が減るのを嫌い、許可を出さなかった。その後、享和3年(1803年)に地元の庄屋たちが高田藩の後押しを得て、再度開湯の願いを出した。高田藩がくり返し交渉を続けた結果、文化11年(1814年)になりようやく、宝蔵院から開湯の許可を得ることができた。赤倉温泉の工事が始まったのはさらに2年後の文化13年(1816年)である。文化13年9月には共同浴場の湯船2箇所が完成し、赤倉温泉がはじまった。今風には赤倉温泉第三セクターによる温泉経営であり、むろん日本最初のものだった。
 その後、明治26年1893年)に信越本線直江津・上野間の全線が開通した。これと同時に従来の湯治客が激減する。そのため、それを補う方法として県外客を誘致することに努め、皇族や文化人・県知事などが訪れるようになった。明治32年には尾崎紅葉が赤倉に滞在している。文化人の中でもっとも赤倉を愛した人は、日本美術の理解者である岡倉天心であろう。天心が初めて赤倉を訪れたのは明治39年1906年)で、その後彼は赤倉に別荘を建て、東洋のバルビゾンを夢見た。
 鉄道の開通により湯治客が減少し、苦境に立った赤倉温泉を救ったもう一つは、駅に近い田口地区から持ち掛けられた分湯の話である。田口地区が赤倉の温泉を分湯する権利を、当時の金額6000円で買い取り、妙高温泉が明治36年から営業を始めた。さらに、大正6年から池の平温泉の開発が始まった。

 同じ故郷でも随分と違った話になってしまった。それは何を意味しているのか。今の妙高市は二つの(あるいはそれ以上の)異なる歴史をもった地区のモザイクのような町であり、それゆえにその二つの違った歴史、風土、経済が時にはうまく融合し、時には両立しないことが起こってきた、ということか。
 妙高市が他の町と異なるのは妙高戸隠連山国立公園の存在なのだが、それが地域住民に何をもたらすかは意外に霧がかかり、雲に覆われ、謎に包まれたままなのである。国立公園が在郷町と温泉町とをどのように結びつけるか、誰にもその答えがよく見えない中で、自然をどのように利用するかを模索しているのだと自分に言い聞かすのだが…