懐疑と不信:知識と倫理

 嘘しか言わない狼少年が「今自分が言っていることは嘘だ」と自己言及(self reference)したとき、それは嘘なのか、と問われたら、どう答えたらいいのでしょうか。狼少年自身が自分は嘘つきだと表明していて、嘘が嘘だということですから、自分の言っていることは本当だということになってしまいます。でも、この発言自体が嘘なら、狼少年は正直者ということになり、嘘しか言わないことに反してしまいます。これが有名な「クレタ島の嘘つき」問題です。この頓知のような話を聞いて、大半の人はイソップ童話の「羊飼いと狼」の狼少年の言動がもたらす倫理的な教訓を思い出し、それと関連づけることはまずないと思います。一方は論理や言語の問題、他方は倫理や道徳の問題であり、二つの話は基本的に異なった分野の問題だと考えるのではないでしょうか。
 「疑う」ことは人が知識を獲得する上で重要な役割を果たしてきました。デカルトやヒュームが懐疑を重要な装置として意識や知識について哲学したことは有名な事実であり、ほとんどの人には周知の事柄です。一方、太宰治の「走れメロス」やイソップの狼少年の話も大抵の人が知っています。そして、これらの例は二つの異なる領域の事柄として、関連させることなく理解されてきました。二つは異なる領域の事柄だということを書き出してみれば、例えば次のようになります。

(1)個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、懐疑)
(2)人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、不信)

デカルトの方法的懐疑は知識論や認識論につながるを近代的な哲学の出発点になり、信頼や不信は人間社会の中の倫理や道徳に存在意義を与えるきっかけになりました。そして、知識と倫理は領域を異にする典型として位置づけられてきました。では、(1)と(2)の言明が違う領域のものだとすれば、その間にはどんな関係があるのでしょうか。知人が狼少年とは正反対にいつも真実しか言わない人だとすれば、その知人をあなたは信頼する筈です。逆に狼少年のようにいつも嘘をつく人であれば、その知人を信用しない筈です。二つの関係は、

(3)(1)がなければ、(2)もない、

であり、人や組織全体を疑うためにはその人や組織の個々の言明や言動を疑わなければなりません。二つの言明の間には(3)のような関係があるのです。
 疑うことと信じることは正反対の心的態度(propositional attitude)だと思われ、二つの間の関連など普通は考えもしません。しかし、疑うことができなければ信じることができず、信じることができなければ疑うこともできないという相補的な関係が背後に隠れているのです。信頼される信念は真でなければなりませんし、偽の信念は疑いのあるものです。信念の真偽が変わることによって、信頼される信念と疑いのある信念の地位はいつでも入れ替わることができます。それゆえ、古い誤りが是正され、新しい信念を採用して、人間関係や組織、制度を変えていくことができるのです。
 個々の信念や言明を疑うことが知識を学ぶ出発点だとすれば、人や組織を疑うために知識を学ぶことになります。友人や仲間を疑うために知識を学ぶというのは奇妙なことに思えますが、それは「人や組織を信頼するために知識を学ぶ」ことの別の表現に過ぎません。信頼するためにはその知識を信じるだけでなく、疑うことができなければなりません。信頼のためのメカニズムは疑うためのメカニズムと基本的には同じなのに、人は通常一方のみへの視点に偏向しがちです。人や組織を信頼したり、不信をもったりすることの基本にあるのは個々の信念や言明に対する真偽です。人を信頼するにはその人の日々の言動が情報としてなければ、納得できる判断をすることができません。組織の仕事や決定に対する信頼や自分の関わり方もすべて(1)から得られるものに依存しています。人や組織への信頼や不信という心的な態度は経験的な真偽の積み重ねの結果なのです。

 このような主張についてあなたはどのように考えますか。成程、その通りなどと簡単に得心せずに、私が書いたことが正しいかどうか疑ってみて下さい。例えば、「信頼できる先生の主張だから、それは正しい」という言明は上の主張に対する反例にならないか、上の主張から「人や組織の言動の善し悪しは信念や言明の真偽に還元できる」ことにならないか、と。さらに、このような懐疑の態度こそが知識を学び、人間や世界を考えることの基本だという主張に賛成しますか。

(問)クレタ島の狼少年は言行一致の行動をとることができるでしょうか。