生産的なLGBT

 ある国会議員LGBTについて雑誌で述べたことが報道を賑わしている。その雑誌で彼女はおよそ次のように述べている。LGBTを認めようという報道が増えているが、LGBTは日本で本当に差別されているのだろうか。日本は同性愛に寛容で、身内の理解がない場合は確かに苦しいようだが、その理解さえ得られれば、日本では幸せに暮らせる。子供が増えるのに税金を使うのは賛成だが、増えないことに使うのは基本的に反対だから、生産性のないLGBTには税金を使うべきではない。
 彼女の主張への反論は簡単である。子供、老人、病人は生産性がないから、彼らに税金を使うべきではないとは誰も賛成しないだろう。だから、LGBTに対して税金を使うべきでない、生産性以外の理由がなければ誰も納得しない。だが、それはどこにも述べられていない。彼女の主張への批判や反論はこのように簡単にできるのだが、本当にそれでことは済むのだろうか。
 彼女は何を問題にすべきだったのか。肝心なのはLGBTが適応なのかどうか、つまり、生物的なメリットがあるか否かなのではないのか。つまり、LGBTが人間の本性かどうかである。生産性のない本性があるなら、それは生物であることに反するのか否かが問われているのではないか。あるいは、正常な本性に対して、異常な本性があるのかが問題ではないのか。これら二つはとてもよく似た問題で、どこが違うかが実は大問題なのである。
 まず、LGBTは正常(normal)なのか、異常(abnormal)なのか。この問いは今の生物学では答えにくい問いである。というのも、「正常」、「異常」はアリストテレスの生物学の基本概念で、それが今でも常識として残っているに過ぎないからである。「正常」、「異常」の代わりに、集団の中のLGBTが多数か少数かと置き換えて考えるのがダーウィンの進化論での考え方である。少数である、適応度が低い、といったことが各個体に認められても、集団全体の適応度はそれによって高くなる場合のあることが数学的に証明されていて、LGBTを含む集団の適応度が高くなる可能性があるのである。
 生物はみな利己的で、自らの生のために他の個体と戦うということになっているが、これは常識の偏見に過ぎない。利他的な個体が含まれる集団がそうでない集団より適応度が高く、不利に見える利他的な個体が存在することが生物学的にも説明できることがわかっている。LGBTが生産性という点では不利でも、間接的に集団の有利さに寄与する可能性は否定できないのである。
 社会的な生き物である人間については、このような生物学的な知識だけでなく、倫理や宗教、歴史や文化を十分に考慮した議論が必要である。LGBTを含む社会集団とそうでない集団についての総合的な比較研究はまだ少なく、不明な点だらけなのである。