「アスリート ファースト」は、誰が何に対して叫ぶべきなのか

 人は浅はか。だから、人なのだと言われてきた。だが、それにしても、このところその浅はかさが目立つようで、つい小言を言いたくなる。暑い夏の今だからこそ、気になって仕方ないのが昨今の暑さである。最近の暑さに関して、人は肝心なことを見失っている、見落としているように思えてならない。
 IOCが「アスリート ファースト」と心底叫ぶ筈がない。地球温暖化の中で8月の日本でオリンピック開催という暴挙を行おうというのがIOCであり、それに追随するのがJOCだから、IOCJOCもアスリートの健康など二の次でしかない。子供たちの体育授業を夏休みの8月に行うバカな教師はいない。だが、IOCJOCもそれを敢えて行おうというのである。それに対して、誰も文句を言わないのも不思議なことだが、オリンピックで熱中症になろうと叫んでいるようで、滑稽でさえある。
 人の都合とは恐ろしいもので、背後にあるのは金勘定でしかない。元アスリートを自覚する(蓄財して引退した)連中はこれを一体どう思っているのか。退役アスリートたちがこぞって反対するなら、実に小気味よく爽快で、暑気払いになること間違いなしなのだが…8月開催の東京オリンピックパラリンピック反対と退役アスリート連が叫んだら、非国民の誹りを受けることになるのだろうか。

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 肝心の温暖化問題はIOCの問題などではなく、もっと根深く、普遍的な問題である。大袈裟に言い立てるなら、人は人の都合にがんじ搦めになって滅んでいくしかないのか、というような問題なのである。それがオリンピックに象徴され、一部暴露されるというのは何とも皮肉なことである。
 オリンピックやパラリンピックに限れば、愚かなことに真夏の暑さの中で速さや強さを競おうというのである。それに対して、宗教も倫理も無力で、非難も反対もしない。これは理不尽そのもので、人はスポーツ以外の理由に振り回されて、灼熱地獄の中でアスリートを競い合わせることをこれまで強行してきたのである。そして、その頂点に立たんと言うのが東京大会なのである。
 これは一体何を象徴しているのか。国家、文化、歴史、スポーツなど、それらは全くの人の都合の中で考えられてきたもの。誰もそこに自然や気象を考えてはこなかった。だから、政治家、歴史学者、文化に関わる連中、スポーツ評論家たちには射程範囲外の、地球そのものを知ることが重要なのである。
 他の季節に、他の場所でオリンピックを行うこと、最も記録が出せる、理想的な条件のもとで競技を行うこと、それをオリンピック開催の条件の一つにしたとすると、それは人が生きる最善の気象条件は何かに密接に繋がっている。そんな条件の地域がどんどん減っている。思い切りスポーツのできない地球になり、それは地球が確実に住みにくくなってきていることの証拠の一つなのである。それは人権が侵犯され、自由が奪われて住みにくくなっていることとは違って、より根本的な住みにくさなのである。
 最後に、「温暖化」は優しい言葉で、切迫感がない。「寒冷」の反対語は確かに「温暖」なのだが、「灼熱化」の方が適切なのかも知れない。