生命の変化(5)

5 適応度
 集団が遺伝可能な適応度(fitness)の違いをもつなら、それは自然選択によって進化する。生存と生殖における「有利さ」を形式化した適応度は自然選択のモデルを考える上で極めて重要な概念である。この適応度は正確にどのようなことを意味しているのか。適応度は確率概念を使って表現されるが、そこでの確率概念はどのように理解されるべきなのか。有機体の適応度は有機体の身体的性質や環境にどのように関係しているのか。適応度に関する多くの問題の中で、この節ではトートロジー問題と付随性について考えてみよう。
トートロジー問題)
 スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)はダーウィン自然選択説を 「最適者生存(the survival of the fittest)」と表現した。以後多くの人がこのスローガンを巡って進化論が科学理論かどうかを問題にしてきた。誰が生き残るのか。最適者が生き残る。では、誰が最適者か。生き残るものである。自然選択の原理は最適者生存であるから、原理は「生き残るものが生き残る」となる。したがって、自然選択説トートロジーである。(正確には、「最適者生存」は分析的な言明である。)それゆえ、それは循環的で、内容のないものである。それは世界がどうであるかについては何も述べていない。経験的内容とは無関係に真である。これは進化論がテスト可能でないことを意味し、この定義のもとでは、現在眼にしている有機体は、それが最適者であったゆえに生存していることが正しいとは言えなくなる。このような批判の代表者がポパーだった。ダーウィン以来、進化論者は自然選択説トートロジーであるという批判に対して擁護を続けてきた。にもかかわらず、ポパーの主張は今でも引用され続けている。その主張によれば、自然選択説は反証不可能であり、それゆえ、進化論はテストできる科学理論ではなく、形而上学的な研究プログラムでしかない(ポパー自身はこの主張を後に撤回している)。
 まず、「トートロジー」という語について考えてみよう。言明は平叙文であり、真か偽のいずれかの値をもっている。「今雨が降っているか、降っていないかである」という命題は「PあるいはPでない」という形式をもっているゆえにトートロジーである。命題の内容によってトートロジーは左右されない。それがいつも真なのはその論理形式からであり、述べられている内容とは関係ない。トートロジーを拡大して、次の言明を考えてみよう。「どんなxについても、xが結婚していないなら、xは独身者である。」この言明だけでは真かどうか決定できない。真偽の決定のために論理的でない語(結婚していない、独身者)の意味が必要となる。実際、結婚していない者は独身者を意味するので、この言明の真であることはその意味から得られる。このような言明は分析的(analytic)と呼ばれてきた。一方、語の意味だけでは真偽が分からない言明は総合的(synthetic)と呼ばれている。
 物理学では重力の法則のような一般法則は経験的な法則である。これに対して、進化論の一般的な言明の多くは経験的には見えない。進化のモデルを注意深く調べると、そのモデルはしばしば数学的な真理であることがわかる。ハーディ-ワインバーグの法則を例にこのことを考えてみよう。この法則は次のように述べられた。

集団のある遺伝子座に遺伝子Aが頻度p、遺伝子aが頻度qであるなら、三つの遺伝子型AA、Aa、aaの頻度はp2、2pq、q2である。

配偶子の頻度から、それが生み出す有機体の遺伝子型の頻度を計算できるというのがこの法則の趣旨である。ここでは任意交配、両性の対立遺伝子の頻度が等しいことが仮定されている。すると、この法則は次の命題と同じことを述べている。

二枚のコインそれぞれが、表がp、裏がqの確率で独立に投げられるなら、二枚とも表、一枚が表で、他は裏、二枚とも裏の確率は、p2、2pq、q2である。

このコイン投げに関する命題は数学的な真理である。実際、この命題は確率論の定理である。したがって、ハーディ-ワインバーグの法則は数学的な定理である。トートロジーという語をルーズに使うなら、進化論の多くの一般命題はトートロジーである。これは物理学の法則が経験的であるのと違って、進化論の一般命題がもつ特徴である。したがって、物理学は経験的で、科学的な理論は経験的な法則の集まりであるという論理実証主義のテーゼは進化論に真っ向から対立することになる。
 トートロジーという語は数学的真理ではなく空虚な自明さを意味している場合が多い。この否定的な意味が進化論はトートロジーに過ぎないという批判の背後にある。だが、誰も数学を単なるトートロジーだと非難しない。同じことは進化論にも言える。フィッシャーの性比に関する論証は数学的な定理であるが、誰も彼の仕事をトートロジーとは呼ばないだろう。

(問)自然選択説トートロジーだと認めても、自然選択が働かない場合が数多くあるし、他の要因で進化が起こる場合もある。いつも自然選択が働くわけではないこととそれがトートロジーであることが両立することを説明せよ。

 上述のようなメタレベルの返答の次に、トートロジー問題への実質的な返答を考えてみよう。トートロジーだと適応度の操作的な定義ができず、モデルを実際に適用できないために、定義を考え直そうというというのが実質的な返答である。これは「最適者」という概念を再考し、適応度の定義をし直すことによって、トートロジーを回避する方法である。ミルズとビーティ(Mills、Beatty、1979)、そしてブランドン(Brandon、1978)は独立に適応度の傾向性解釈(propensity interpretation)を提案した。適応度を実際の頻度で考えるのではなく、確率的な傾向性で解釈するというこの試みは、確率の傾向性解釈を直接に応用したものである。この見解では、適応度は有機体の実際の生存と生殖の成功によっては定義されない。そうではなく、適応度は特定の環境での生存と生殖のための有機体の(確率的な)傾向性、あるいは能力である(適応度は絶対的には定義されず、いつも環境に相対的に定義される。ある環境で生存と生殖に成功することは別の環境では成功しないかもしれない)。だから、「最適者生存」は「生存者生存」ではなく、「最大の生存の傾向性をもつものの生存」(これはトートロジーではない)となる。最大の生存の傾向性をもつ有機体は実際には生存しないかもしれない(これが可能なのは確率的な傾向性であるからである)。例えば、一卵性双生児を考えてみよう。一人は落雷に当たって死ぬが、他の一人は生存し、子孫を残す。二人とも同じ適応度をもつが、実際に生殖に成功するのは一人だけである。このように、適応度の傾向性解釈は自然選択説の循環を打ち破ろうとする試みである。だが、適応度の傾向性解釈に批判がないわけではない。適応度という概念の説明として傾向性解釈は広く流布しているが、何人かの哲学者はそれがトートロジー問題の解決にはならないと論じている。最適者生存を「環境Eでより高い適応度をもつ有機体がより低いものより大きい生殖上の成功を多分おさめるだろう」と考えるなら、この「多分」は確率の傾向性解釈か頻度解釈のいずれかによって解釈される。傾向性解釈をとれば、最適者生存は定義によって真であり、頻度解釈をとれば、分析的ではないが、テスト可能ではなくなる。
 この結論が正しいならば、進化論は循環しており、反証不可能ではないのか。これが彼らの批判である。だが、この批判の真の問題は、それが進化論を誤解している点である。既述のように、進化の要因は自然選択だけではなく、浮動や移住を含んでいる。つまり、どんな場合でも生存は最適者の生存ではない。ダーウィン自然選択説でさえ、生存闘争、遺伝可能な変異、適応度の異なる変異という条件が満たされなければならない。これら条件が自然の集団で満たされるかどうかは経験的な問いであり、定義の問題ではない。したがって、進化論は循環でも無意味でもない。

(問)本文のトートロジー問題への二つの対処の仕方の違いを要約せよ。

(適応度の付随性(supervenience))
 有機体の物理的な性質とそれが棲む環境がわかれば、その有機体がどのような適応度をもつか決定される。しかし、有機体のもつ適応度がわかっても、その物理的な性質や環境は決定されない。環境の中での有機体の性質とその環境での適応度の間のこの非対称的な関係は、適応度が物理的な性質に付随することを意味している。適応度が付随的であることをより正確に表現すれば次のようになる。二つの有機体が物理的に同一で、しかも同一の環境に住んでいるなら、それらは同じ適応度をもたなければならない。しかし、二つの有機体が同じ適応度をもっていても、それらとその環境が同一であるとは限らない。さらに、付随性を一般的に定義するとどうなるだろうか。

性質の集合Pが別の性質の集合Qに付随するとは、Qの性質がPの性質が何であるかを決定するが、その逆は成立しないことである。

したがって、PがQに付随するなら、PからQへの1対多の対応関係がある。
適応度が物理的な性質に付随するという事実は次のより一般的なテーゼを示唆している。

すべての生物的な性質は物理的な性質に付随する。

ここからさらに、物理学以外の科学で追求されるすべての性質は物理的な性質に付随する、というテーゼが考えられる。このテーゼは物理学に他の科学とは異なる特別の地位を与えることになる。つまり、物理学がこの世界の記述において最も基本的で、詳細なものであることを表明している。
 では、すべての対象は物理的であると言うことによって物理主義は何を意味しているのか。一つの答えは、有機体が物理的な対象であるとはそのすべての性質がその物理的な性質に付随することである、というものであろう。これが付随性から得られる特徴づけである。
さて、適応度と有機体の物理的性質の関係を考えてみよう。ある集団の有機体を特徴づける適応度の集合をF、Fが付随するそれら有機体の物理的な性質の集合をM(F)としてみよう。問題になる主張は、Fが説明するものはみなM(F)が説明する、である。この主張をさらに一般化し、Bをある集団の有機体を特徴づける生物学的な性質、M(B)をそれら生物学的な性質が付随する物理的な性質とすると、Bによって説明されるものはみなM(B)によって説明される、となる。さらに一般的な主張は、物理学以外の科学において説明される現象は物理学的に説明される、となる。これらの一連の主張は正しいだろうか。
 生物学的な性質が物理学的な性質に付随するなら、生物学的な性質によって説明されるものは物理学的な性質によっても説明されるのだろうか。パトナム(Hilary Putnam)の答えはノーである。直径5cmの穴のあいた板があり、その穴を一辺が5cmのサイコロが通りぬけることができるかどうか考えよう。それらの巨視的な性質、つまり、サイズ、形を調べることで、すぐに通り抜けられないことは判明し、その理由を説明することができる。一方、私たちは板やサイコロの原子の位置や運動量を調べることもできる。では、これらの微視的な性質はサイコロが穴を通り抜けることができない理由を説明できるだろうか。パトナムによれば、微視的な性質は巨視的な性質を説明できない。原子が異なった風に配置されたとしても、サイコロは板の穴を通り抜けることができないゆえに、原子の位置はサイコロが板の穴を通りぬけるかどうかに説明上は関係がない。同じように、適応度がある集団の中で生じる形質頻度の変化を説明できても、その集団の有機体の物理的性質はそれを説明できない。この結論は奇妙に見える。パトナムの議論は次の前提に基づいている。もしCがEの生起に必要でないなら、CはEの説明に関連していない。だが、これは明らかに正しくない。井伊直弼水戸藩士に殺されたが、それは必然的なことだろうか。長州藩士が決行しても井伊は殺されたはずである。水戸藩士は井伊の殺害に必然的ではなかった。にもかかわらず、私たちは伊井直弼の殺害の説明に水戸藩士が殺したと言うことに何の不満ももたない。つまり。CがEの生起に必要でなくとも、CはEの説明になることができる。原子のそれぞれの位置や運動量は莫大であり、それらをすべて含む説明は複雑極まりないが、それでもそれは説明である。
 この結論は何を意味しているのだろうか。原理上、物理学は生物学が説明しようとするものを説明できるということである。実際にそれができないのは私たちの単なる無知に過ぎない。したがって、生物学の自律性は私たちの無知からくる見かけのものに過ぎない。この結論は、しかし、単一の出来事について説明する場合に限られる。科学には単一の出来事の説明のほかにも仕事がある。さまざまな単一の出来事が共通にもつものを特徴づけるという仕事であり、それは一般的なパターンである。
 適応度を再度考えてみよう。自然選択のモデルは集団の個体の適応度の違いに応じてその集団がどのように変化するかを記述する。例えば、フィッシャーの自然選択の基本定理によれば、集団の進化の比率は適応度の偏差に等しい。これは特定の集団についての言明ではなく、一般的な言明である。物理的な違いを抽象して、異なる集団が共通にもつ特徴を述べている。フィッシャーの自然選択についての一般化は生物の物理的な事実に還元することはできない。というのも、適応度がそのような物理的事実に付随するからである。同じことは他の一般化についても主張できる。例えば、ロトカ-ボルテラ(Lotka-Volterra)方程式は被食者の数と捕食者の数がどのように関係しているかを述べている。この場合も方程式が適用される集団は任意である。しかし、実際の生物集団はみな極めて異なっている。
 これまでの話をまとめておこう。生物学が説明できるものはみな物理学によって説明できるかどうかという問いについての答はどうなるか。まず、問いを二つに分けることができる。(1)ある特定の出来事がなぜ起こるかについての生物学的な説明があるなら、それについての物理学的な説明はあるか。(2)幾つかの出来事がどのような一般的パターンをもつかについての生物学的説明があれば、それについての物理学的な説明はあるか。(1)への答はイエスで、(2)への答はノーである。

(問)集団の平均身長が各メンバーの身長に付随するか、また、それが各メンバーの身長から説明できるか述べよ。