変化とその表現(6)

変化の歴史(6)
アリストテレスの科学とその方法]
 アリストテレスの経験科学への態度はプラトンと違っていた。人間がもつ最高能力は理性であり、その活動は観想という点では二人は同じだが、アリストテレスは「第一哲学」と並んで、「第二哲学」、つまり物理学と生物学も重要だと考えていた。そこで、プラトンアカデメイアに数学科があったように、アリストテレスは自分の学校リュケイオンに最初の科学科を置いた。そこでは物理化学より生命科学が研究の中心だった。アリストテレスによれば、研究対象によって追求の方法は異なるが、通常は次のようになっている。

(1)主題を定義する。
(2)主題に関するそれまで一般に受け入れられている見解をまとめることによって、その問題点を抽出する。
(3)自らの論証と解答を提示する。

これは現代で使われている科学論文の書き方でもある。彼が使った方法には二つのタイプがある。論理的演繹と実践的考察である。プラトンとは対照的に、アリストテレスは動植物の詳細な観察と解剖を行なった。彼の自然研究は諸原因の追求にあった。彼は4原因(質料因、形相因、機動因(起動因)、目的因)を対象のもつ性質と考えた。
アリストテレスの4原因
 アリストテレスは形相(本質)は対象の外にではなく、具体的な個体(個物)の中にあると考えた。プラトンイデアと違って、形相は個体に内在し、すべての個体は形相と質料が一体となったものである。アリストテレスは存在するものの変化を説明するために「可能態」と「現実態」という区別を考えた。そして、彼は可能態と現実態の間に起こる変化を4つの原因によって説明した。アリストテレスは自然に4原因を認め、それらを使って事物の現実あるいは可能な状態とその変化を因果的に説明しようとした。『自然学』では4原因を使って「なぜ」という質問に答える、つまり、現象を説明する。自然な運動として物体はその構成要素の可能性を満たすように運動する。主に土や水からなる物体の自然な運動は地球の中心へ、空気や火からなる物体はその逆の運動をする。
 それぞれの原因について家を例に考えてみよう。質料因は家を造る材料、石、木等である。形相因は家を造る設計者の心の中にあり、質料によって具体化されるデザインである。機動因は家を造る主体、つまり、建築家である。目的因は家を造る目的である。アリストテレスはこれらの異なる役割を下のように考えている。
形相因 物質的なものを現実化する、決定する、特定するものである。
質料因 それなしには存在や生成がない、受動的な可能態であるものである。
機動因 その作用によって結果を生み出す。それは結果を可能な状態から現実の状態に変える。
目的因 そのために結果や成果がつくられるものである。

(問)身の周りの事柄を理解・説明するためにアリストテレスの4原因が使い分けられ、彼の考えが今でも生きていることを確かめよ。ところで、現代の科学理論の中にはこれら4原因が登場するだろうか。

 アリストテレスの4原因は事物の構成と変化の両方を含んでおり、変化の時間軸に二つの原因(機動因と目的因)、構成の階層軸に二つの原因(形相因と質料因)を置いたと考えられ、それぞれ時間的因果性、存在論的因果性と呼ばれている。その後、いずれの軸も一方向だけ取り上げられ、時間軸からは目的因が、階層軸からは形相因が排除されて行った。それが現在の因果的、還元的説明のもとになっている。階層軸は科学の研究の仕方もあって個別科学の研究領域に分けられ、階層的に分割された各領域では機動因だけがもっぱら研究対象として取り上げられることになる。
アリストテレスの自然科学)
 アリストテレスの自然科学への大きな貢献は生物学にある。生命現象は形相因と目的因の多くの証拠を与えてくれる。彼は約500種の動物を詳細に研究し、一部解剖まで行なった。アリストテレスプラトンも生物に目的因の証拠、自然におけるデザインを見出した。
 現在の私たちの周りには生きていなくとも動くものがたくさんある。だが、アリストテレスの時代は違っていた。地上で動くものの主役は動物だった。動物の運動は目的をもち、有機体の意思や欲求にしたがっている。成長が生物の本性を満たすように、運動も動物の本性を満たしていると彼は考えた。
 生命のないものの運動を説明するために、彼はものの本性という概念を拡張した。事物の秩序の中で「元素はその自然な場所を求める傾向をもつ」と仮定することによって、生命のない事物の運動を理解できると考えた。だから、4元素について、土はもっとも強く下へ、水はそれほど強くはないが下へ、火はもっとも強く上へ、空気はそれ程強くはないが上へ動く。元素とその組み合わせがどのように動くかの一般理論は、元素以外の事物に適用するにはもっと細部を詰めなければならなかった。
(運動法則:自然な運動と不自然な運動(Natural MotionとViolent Motion))
 石がもつ自然な傾向は落下することだが、私たちはその石を投げ上げることができる。アリストテレスはこのような運動を「不自然な」運動と呼び、自然な運動と区別した。「不自然な」という語は外部から無理に力が働き、運動を強制的に生じさせることを意味している。(現代では重力が原因となってリンゴを落下させるというのが常識である。だが、ニュートン以前にはリンゴの落下は外部の助けを必要としない自然な運動であり、したがって、説明する必要のないものだった。)最初に速度を量的に扱ったのはアリストテレスである。彼は落下に関して二つの量的な法則を述べている。

(1)重いものほど速く落下し、その速度は重さに比例する。
(2)落体の速度はそれが落下する媒質の密度に逆比例する。

これらの法則は単純で、しかも数学的な量的表現をとっている。石と紙を落下させれば、(1)が成り立ちそうである。(現在でも学生に対する質問調査ではアリストテレス的な考えが普通に見受けられる。)(2)についても、空中から落下する石は水中では速度が落ちるように見える。だが、アリストテレスはこれらの法則を厳密な仕方で確かめることを怠った。(1kgの石と500gの石を空中や水中で落下させたら、(1)と(2)からどのようなことが予測されるか。)また、(2)より、真空は存在できないと彼は結論した。真空が存在したら、その密度は0なので、どんな物体も無限の速度で落下することになり、これは不合理であると考えたからである。
 不自然な運動について、彼は運動する物体の速度はそれにかかる力に比例すると述べている。これはまず、押すことを止めれば、物体は動くことを止めることを意味している。これも確からしく見える(後述のガリレオの反証を参照)。だが、箱と床の間の大きな摩擦力を説明できない。箱をそりに載せ氷面を滑らすと、押すのを止めてもそりは滑り続ける。
 物体の運動がその自然な場所を求めてのものであるという説明は天体には適用できない。天体の運動は落下や上昇ではなく、円運動だからである。そのためアリストテレスは天体が4元素からできているのではなく、5番目の元素からできていて、その自然な運動は円運動だと仮定した。では、どこまでが地上で、どこからが天上なのか。太陽が熱を成分としてもっていないなら、なぜ太陽光は温かいのか。このような疑問がすぐに出てくる。

アリストテレスの自然学の験証]
 アリストテレスは実際の対象の運動を正確に記述することより、運動の原因についての注意深い哲学的な分析と説明に関心をもった。そのためか、運動の正確な記述のための実験をしなかった。このことは記述と説明が異なり、運動の理解には正確な記述の欠けた説明だけでは十分でない例となっている。そこで、運動の正確な記述には実験を必要とすることを幾つかの例を通じて見てみよう。アリストテレスの物理学は観測できる運動と一致する理論をもっていた。天文学から地球は宇宙の中で固定していて、すべての天体は地球の周りを回るという見解がもたらされた。物質的特徴から、すべての物質は火、水、土、空気の4つの元素からなっており、地上の物体の自然な運動は4つの元素の相対的な量に依存した上下運動である。上下運動以外の他の運動は不自然なもので、別の力(押す、引く)を必要とする。
 アリストテレスの落体に関する法則に対してガリレオが考えた反論は下のように述べることができる。

アリストテレスの仮定:重い物体はそれより軽い物体と比べ、より速く落下する。
ガリレオの推論:重い物体Mと軽い物体mがあり、アリストテレスが信じていたように、重い物体ほど速く地上に落下すると仮定しよう。最初の仮定から、Mはmより速く落下する。さて、m とM が一緒になった物体を考え、それをm + M だとしてみよう。すると、何が起こるだろうか。m + M はMより重く、それゆえ、Mより速く落下しなければならない。だが、一緒になった物体m + Mの中で、Mとmはそれが一緒になる前と同じ速さで落下するだろう。だから、遅いmは速いMに対してブレーキのように働き、m + M はMだけの落下の場合よりゆっくり落下するだろう。それゆえ、m + M はMだけの落下の場合より、速く、かつ遅く落下することになり、これは矛盾である。したがって、アリストテレスの仮定は誤りである。

(問)上のガリレオの推論が正しいことを説明せよ。また、落体の法則についての上の推論とガリレオの落体の実験結果を比較し、それらの違いを考察せよ。

アリストテレスと生物学]
 現代の生物学者、そして科学者がアリストテレス的科学を受け入れない理由の一つは、多くの点で彼が誤っていたからである。ルネッサンスの間、多くのアリストテレスの考えは再吟味された。例えば、アリストテレスにとっての宇宙(Cosmos)は完全さを求める秩序だった。この秩序の頂点が不動の動者で、究極的な宇宙の原因だった。天球は不動の動者を模倣し、そうすることによって天上に永遠の円運動をもたらした。コスモスについてのアリストテレスの主張はコペルニクスの時代までヨーロッパを支配し続けた。
 自然科学は変化する自然の対象を扱う。変化は自然科学が扱う基本的現象である。アリストテレスの自然研究も変化の分析にあり、彼は変化を三つの要素を含むものと見ている。

(1) 変化の結果として存在する形相
(2) 以前にはなかった(1)の形相
(3) 常に存在するが、変化の結果、(1)の形相によって新しく特徴づけられる質料

アリストテレスは生物の形相を霊魂と呼んでいるが、それは三種類あり、植物的、感覚的、合理的なものである。アリストテレスの自然研究の多くは生物学で占められている。彼はすべてのものが形相と質料から構成され、質料に起こる変化はある形相が別の形相に置き換わることであると考えた。すべての自然物は目的をもち、それを達成するという性質をもつゆえに、この置き換えが起こる。石が低い地点に向かうのも、生物が成長するのも完全な状態を達成するための変化だと考えられた。
 アリストテレスの生物学研究は動物が中心である。彼の生物学研究で特に目立つのは目的論である。自然物の形相はその目的によって決定されるという目的論は自然には普遍的なデザインがあるという考えと混同される。アリストテレスの目的論は宇宙の目的とは関係ない。彼が主張する目的論は事物の構造や行動はそれらの存在や機能に貢献するものとして理解されなければならないという主張である。
アリストテレスの正常モデル]
 どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの「正常モデル」の考えである。アリストテレスの物理学は目的論に満ちている。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていた。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつける。重い対象はこれを自らの機能としてもっている。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別される。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果である。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因である。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明される。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象はみなそれぞれの本来の場所に存在することになる。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなるが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能である。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もない。力学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現している。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたが、ニュートン以後の物理学では切り離されている。
 このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用される。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からずれたものが正常でないものである。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはない。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えている。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎない。
ダーウィンの変異モデル]
 アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)の変異モデルである。彼は生物集団の中には常に変異が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で次第に多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択説によって生物の進化を説明した。この説明の出発点は変異の存在である。この変異、個体差には正常も異常もない。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっている。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではない。
 このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としている。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルで考えているだろうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているだろう。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられている。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだろう。
 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断である。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになる。この表現のどこにも価値判断など入っていない。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことである。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきた。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存している。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄である。

(問)変異モデルでは「正常」と「異常」がなぜ科学的な概念ではないのかを説明せよ。