変化とその表現(2)

変化の歴史(1)
ギリシャ哲学から経験科学へ
ギリシャ哲学は一見すると科学哲学とは何の関係もないどころか、それが思弁だけからなるゆえに科学哲学の研究には何の貢献もしないとさえ考えられてきた。というのも、経験を重視する科学に対し、ギリシャ哲学は経験への配慮が希薄で、合理的な推論を偏重すると考えられてきたためである。だが、このような考えは科学がもつ合理的な推論の役割を無視することから出てきたものであり、仮設演繹法を重要な方法とする科学は実はギリシャ時代につくられた推論方法を巧みに利用してきたことを忘れている。このような点からギリシャ時代の自然に対する考察がどのように展開されたかを、正統的な科学史哲学史の理解からは逸脱することになるかもしれないが、科学哲学の観点から眺め直してみよう。ギリシャ時代に確立された推論方法とベーコンの経験的知識に関する方法論、さらにはそれらに数学の方法と知識が結合されることによって、好奇心の組織的な具体化である経験科学が誕生したことを考えるなら、科学を支える歴史的な柱の一つがギリシャ哲学だと言って構わないだろう。このような観点からギリシャ哲学を見直してみよう。
ギリシャ哲学と科学の関係]
科学哲学がギリシャ哲学から始まるということを強調するためにギリシャ哲学について話をするわけではない。科学はギリシャ哲学にはない側面を多くもっているが、それと共通する側面もある。それは合理的な推論を信頼することであり、これは科学活動を構成する不可欠の部分となっている。この合理的側面をギリシャ哲学がどのように育て、それが科学の営みにどのように生かされてきたかを知り、さらに今でも合理的な推論が科学上の問題を解決するのに重要な役割を果たしていることを実感するのがここでの課題である。
ギリシャ哲学が合理的、分析的に世界や人間を捉えようとしたこと、仮説やそれを使った推論に敏感であったことは後世にも受け継がれた。その姿をギリシャの哲学者がどのように推論したかだけでなく、何を推論しようとしたか、つまり、推論の形式だけでなく、推論の内容にも注目して見てみよう。内容がどのような言語表現を与えられるか、内容がどのような概念として表象されるかにも注目してみよう。内容を明確に概念化するには思弁だけでは不十分で、不毛でしかないことも実感してほしい。推論することは思弁的だが、推論の内容が明確なものかどうかは思弁だけでは十分な証拠が与えられない。推論の内容が明確であるためには推論で使われる概念が経験に耐えるだけの確実なものでなければならない。
以下のギリシャ哲学の合理的思考を理解する際に、次の四つの要点を心に留めながら読み進めてほしい。そして、ギリシャ哲学は四つのどれに関心をもち、どれを軽視したのかを理解してほしい。

概念の内容は経験的に、概念の形式は数学的に、概念の操作は論理的に、概念の験証は実験・観察によって与えられる。

さらに、ここでの話は「自然の変化をどのように扱ったか」の過去の典型例であり、変化をどのように理解するか、変化にどのように対処するかは以後の基本的な主題である。「自然がわかる」とは「自然の変化がわかる」ことであり、変化を通じて存在や構造を理解するのが経験科学の理解の仕方である。では、ギリシャ哲学ではどうだったろうか。
最後に、以下の叙述から理解してほしい重要な点はプラトンアリストテレスの哲学的な総合やベーコンの試みが決して唯一の総合でも、正しい試みでもなかった点にある。

それまでのギリシャの哲学者の理論を詳細に研究し、総合したプラトンアリストテレスの試みやそれらを批判したベーコンの試みは後の物理学や生物学、そして数学の歩みに圧倒的な影響を与えたが、決して唯一の正しいものであったからではない。

 その前に、「自然主義」という用語について述べておきたい。自然主義は哲学の用語としてしばしば登場するが、それが正確に何を意味しているかは意見が分かれる。ある哲学者は自然主義を哲学と経験科学の連続性を主張するものと考える。他の哲学者は二元論の否定こそが自然主義の重要な主張と考える。あるいは、自然主義の本質は認識論や意味の外在主義的な理解にあるとも考えられている。 これら三つをすべて含め、二元論や認識論、意味の内在主義に反対し、哲学と経験科学を連続するものと捉える立場が自然主義であると考えている哲学者もいる。これらをもとに自然主義の定義を考えてみよう。私たちがもつ最善の科学理論が自然に存在するもののタイプ(性質)を明確にするための最善の指針となる。状態、性質、対象、出来事は科学理論によって実在的だとみなされる場合に限って実在的である。自然主義の主張を簡単に述べれば、「科学理論こそが世界の最善の像を与える」というものである。では、科学理論はどのようなタイプを実在的とみなしているのか。それを考えるには科学の本性を見ておかなければならない。通常、自然主義者によれば科学理論は実在する世界についての理論であると考えられている。科学は実在についての研究であるという科学実在論(scientific realism)の主張は自然主義と重なっている。
 私たちの周りにある性質、状態、対象、出来事は自然的なものである。あるものが自然的とは、それが自然科学の基本的な理論によって理解できることである。このような自然理解は昔から存在していた。例えば、デモクリトスの原子論は古代の唯物論の典型である。スピノザ(Baruch Spinoza)がアリストテレスの目的因やプラトンの考えを否定し、道徳の自然性や相対性を主張したのも自然主義の例である。ヒュームが実体という概念を否定し、自由、自己、因果性等を心理学的に扱うのも自然主義の典型例である。現代に眼を転じたとき、自然主義的傾向は直接に肌で感じられるほどに強い。その好例がアメリカ哲学と自然主義の関係であろう。他の哲学に比較して、アメリカの哲学では自然主義的な傾向が強い。分析哲学を中心にした哲学は自然主義的な特徴をアメリカ哲学にもたらしている。そして、そのような特徴は自然的でない概念を自然的なものに還元する「自然化(naturalizing)」という用語に端的に現れている。

変化の歴史(2)
[変化の自然主義的説明]
哲学史ではターレスの名前がいつも最初に出てくるが、アリストテレスは彼が「水がすべてのものの起源(アルケー)である」(『形而上学』、983b18)と述べたと書いている。彼の理論は一般的で、観察に基づき、超自然的なものに頼っていないという点で、自然主義的な説明の最初の例になっており、それまでのゼウスやポセイドンが引き起こす自然変化の擬人的説明とはっきり異なっている。ターレスはすべてのものを自然的対象である水によって一元論的に説明する、つまり、複雑な現象を単純で基本的なものに還元することによって説明しようとする。(水が単純で、基本的とはどのような意味だろうか。また、水は本当に単純で、基本的だろうか。)これは彼が典型的な自然主義者であったことを物語っている。
このターレスに対して、水は冷たく、湿っているという確定した性質を既にもち、それらを使っただけでは暑い、乾いたという対立する性質を説明できないと反論したのがアナクシマンドロスであった。彼は空間的、質的、時間的に無限定なアペイロンという自然的ではない、理論的、仮説的な実体を使ってすべてを一元論的に説明しようとした。アナクシメネスはターレスと同じようにアルケーとして空気を仮定する。これは一見ターレスへの回帰に見えるが、アナクシマンドロス反自然主義的な仮説の欠点を補うためであった。彼らはいずれも一元論者であり、現代の超紐理論(Superstring Theory)のように一つの理論ですべてを説明しようとする。(現在このような理論はTheory of Everythingと呼ばれている。)アナクシメネスが空気で強調したのは、それが観察できないものに依存せず、かつ質的な違いを量的な違いに還元できる点であった。自然の変化を量的な変化として理論化できると考えた点がアナクシマンドロスともターレスとも違う点である。
イオニアの哲学者の考えで重要なのは物理科学の始まりを示す新しい説明様式にあった。すべてのものがつくられる究極的な実体はターレスでは水、アナクシメネスでは空気、そしてヘラクレイトスでは火という自然の中の実体だった。
[変化か不変か]
ヘラクレイトスは変化そのものに注目し、それこそが自然理解の鍵と考えた。困惑を引き起こすだけのような彼の「万物流転」の理論はプラトンによっておよそ次のように述べられている。(『クラチュロス』402A)ヘラクレイトスが言うには、すべては変化し、静止しているものはない。存在しているものを川の流れにたとえれば、人は同じ川に二度と入ることはできない。では、ヘラクレイトスの難解な理論はどのような内容なのか。プラトンは流動理論とも呼べるこの理論が、すべては常に変化し、どんな対象もその構成成分を不変のまま保持しないという主張だと捉えた。だが、ものが動いている過程のようなものであれば、そのものが変化の中でその同一性を保つことは不可能ではない。これは流動性にも程度があることを暗示している。すると、次のような二つの理論あるいは解釈が考えられる。

(強い流動理論)
どんな対象もあらゆる点でいつでも変化している。だから、持続するものはない。
(弱い流動理論)
どんな対象もある点でだけいつでも変化している。だから、持続するものがある。

では、ヘラクレイトスの流動理論はどのようなものなのか。彼の変化一般、特に流れる川の議論から、変化と持続は両立すると考えることもできる。弱い流動理論から、人は同じ川に入ることができるが、その川の水は違っていると主張できる。だが、プラトンによればそれは同じ川ではない。というのも、川の水が違うからである。いずれの解釈でも、流動理論は成立している。だが、流動理論から同一性とその持続の問題がうまく説明できるかどうかは不明である。これがヘラクレイトスの遺した問題である。プラトンの解釈ではヘラクレイトスは同一性に関する存在論(メレオロジー)を前提している。これは、対象の同一性はその構成部分の同一性に依存するという考えで、次のように定式化できる。

どんな複合的対象x、yについても、x=yなら、xのすべての部分はyの部分であり、yのすべての部分はxの部分である。

つまり、部分の同一性は全体の同一性の必要条件になっている。弱い流動理論ではこのような主張は成立していない。(なぜか。)
流動理論を主張するヘラクレイトスとは違って、パルメニデスは変化そのものを否定する。変化は不可能で、その概念は矛盾を含んでいる。この主張は彼にとって仮説や観察の結果ではなく、演繹的推論の結論であった。また、彼は生成や消滅の不可能性も同じように演繹的推論の結論と考えた。パルメニデスは彼の中心的な主張を支持するために次のような推論をしている。まず、次の二つの前提をおく。

(1)ものを考えることができるなら、それが存在することは可能である。
(2)存在しないものは存在することができない。

この(2)は次の(3)と同じである。

(3)存在できるものは存在する。

したがって、(1)と(3)より、

ものを考えることができるなら、それは存在する。

そして、これは次のものと同じである。

存在しないものは考えることができない。

したがって、存在しないものは考えることも、そして、当然語ることもできない。この結論がパルメニデスの中心的な主張である。

パルメニデスの推論では様相の違いは無視され、区別がなくなっている。つまり、「可能的なもの=現実的なもの」という関係が成立している。では、パルメニデスの推論は正しいだろうか。最初の前提(1)は正しそうに見える。考えることができないものが存在するとは想像しにくい。だが、前提(2)はどうか。実際に存在しているものだけが存在可能であるとは考えにくい。では、なぜパルメニデスはこのように考えたのか。多くの意見が出されているが本当のところはわからない。パルメニデスはこの結論から次のように自分の主張を導き出す。その推論方法は、例えば、変化が存在することを主張しようとすれば、存在しないものについて語ることになってしまい、上記の結論に反してしまう、という帰謬法である。こうして、以下のような主張がなされることになる。

1生成や消滅は存在しない。
2 変化は存在しない。
3 運動は存在しない。
4 多数性は存在しない。

現在の私たちはこれらの結論のどれも正しいとは思わない。では、パルメニデスの推論に誤りがあったのだろうか。存在しないものは存在できない、存在の否定は存在の不可能性だと彼は考えた。また、すべての否定は存在の否定だとも考えている。これらは概念と存在が限りなく近いような特殊な状況でなければ成立しないだろう。だが、このような状況は特殊ではなく、意外と身近にあることを示してくれたのがパルメニデスの弟子ゼノンである。