キキョウから運動法則へ

 キキョウ(桔梗)の花が咲き出した。私は昔からキキョウが好きなのだが、その理由を遡ると祖父母が吸っていたきざみ煙草の「ききょう」に辿り着く。その図柄が幼児の脳にしっかり記憶され、私がキキョウを経験する始まりになった。これは実物ではなく、文献で何かを知るのに頗る似ている。テキストを通じて知ることと実物を観察して知ることは人のもつ二つの知り方なのであるが、私にとってキキョウは前者の最初の対象だったのである。不思議なことにキキョウは寂しそうでありながら、芯のある姿だという印象は今になってもあまり変わらない。大抵の花の印象は年齢と共に変わっていくものだが、私のキキョウの印象は一向に変わらないのである。
 この理由はキキョウの知り方にありそうである。テキストは版や写本に異同があるとはいえ、普通は変わらない。テキストが自ら変化することはない。だが、観察対象である植物自体は同じ個体が二つとないほどに変化している。だから、実証的な知識は経験の変化に応じて変化するのだが、テキストの内容は変わらず、したがってその知識も不変という訳である。そして、何とこれが科学革命が起こるまでの知識についての一般的な理解だったのである。だから、科学革命後、科学文献の内容はいずれ不正確か誤りであることが判明するものに変わったのである。
 原典のテキストは変わらない。せいぜいのところ、テキストの版や写本の異同程度である。そのテキスト研究が哲学の研究となっているなら、注釈者としての研究者は解釈を変える、新しい解釈をするという窮屈で、姑息な手段によってしか自らの研究を実行できない。幸運なことに、研究しているテキストの誤りを見つけたとしても、それは原典テキストの記述の矛盾や不整合であって、真なる説の発見、提案とはいかないのである。
 そこで、私の貧しいキキョウ経験ではなく、アリストテレスの運動法則を批判したガリレオの見事な例を考えてみよう。流石にガリレオで、実に切れ味鋭い批判なのだが、そうであっても真なる運動法則に行き着くには程遠いものなのである。批判と発見の落差は驚くほど大きいことに気づかされるのである。

アリストテレスの運動法則とガリレオの批判)
アリストテレスは事物の秩序の中で「元素はその自然な場所を求める傾向をもつ」と仮定することによって、生命のない事物の運動を理解できると考えた。だから、4元素について、土はもっとも強く下へ、水はそれほど強くはないが下へ、火はもっとも強く上へ、空気はそれ程強くはないが上へ動くと考えた。
(運動法則:自然な運動と不自然な運動(Natural MotionとViolent Motion))
石がもつ自然な傾向は落下することだが、私たちはその石を投げ上げることができる。アリストテレスはこのような運動を「不自然な」運動と呼び、自然な運動と区別した。「不自然な」という語は外部から無理に力が働き、運動を強制的に生じさせることを意味している。現代では重力が原因となってリンゴを落下させるというのが常識である。だが、ニュートン以前にはリンゴの落下は外部の助けを必要としない自然な運動であり、したがって、説明する必要のないものだった。最初に速度を量的に扱ったのはアリストテレスである。彼は落下に関して二つの量的な法則を述べている。

(1)重いものほど速く落下し、その速度は重さに比例する。
(2)落体の速度はそれが落下する媒質の密度に逆比例する。

これらの法則は単純で、しかも数学的な量的表現をとっている。石と紙を落下させれば、(1)が成り立ちそうである。現在でも子供や学生に対する質問調査ではアリストテレス的な考えが普通に見受けられる。(2)についても、空中から落下する石は水中では速度が落ちるように見える。だが、アリストテレスはこれらの法則を厳密な仕方で確かめることを怠った。(1kgの石と500gの石を空中や水中で落下させたら、(1)と(2)からどのようなことが予測されるか想像してほしい。)また、(2)より、真空は存在できないと彼は結論した。真空が存在したら、その密度は0なので、どんな物体も「無限」の速度で落下することになり、無限は実在しないと考えていたアリストテレスには不合理だったのである。

*真空が存在しないとすれば、ギリシャの原子論は成立するだろうか。

不自然な運動について、彼は運動する物体の速度はそれにかかる力に比例すると述べている。これはまず、押すことを止めれば、物体は動くことを止めることを意味している。これも感覚的には確からしく見える。だが、箱と床の間の大きな摩擦力を説明できない。箱をそりに載せ氷面を滑らすと、押すのを止めてもそりは滑り続ける。
物体の運動がその自然な場所を求めてのものであるという説明は天体には適用できない。天体の運動は落下や上昇ではなく、円運動だからである。そのためアリストテレスは天体が4元素からできているのではなく、5番目の元素からできていて、その自然な運動は円運動だと仮定した。では、どこまでが地上で、どこからが天上なのか。太陽が熱を成分としてもっていないなら、なぜ太陽光は温かいのか。このような疑問がすぐに出てくる。
 アリストテレスの落体に関する法則に対してガリレオが考えた反論は次のように述べることができる。

アリストテレスの仮定:重い物体はそれより軽い物体と比べ、より速く落下する。
ガリレオの推論:重い物体Mと軽い物体mがあり、アリストテレスが信じていたように、重い物体ほど速く地上に落下すると仮定しよう。最初の仮定から、Mはmより速く落下する。さて、m とM が一緒になった物体を考え、それをm + M だとしてみよう。すると、何が起こるだろうか。m + M はMより重く、それゆえ、Mより速く落下しなければならない。だが、一緒になった物体m + Mの中で、Mとmはそれが一緒になる前と同じ速さで落下するだろう。だから、遅いmは速いMに対してブレーキのように働き、m + M はMだけの落下の場合よりゆっくり落下するだろう。それゆえ、m + M はMだけの落下の場合より、速く、かつ遅く落下することになり、これは矛盾である。したがって、アリストテレスの仮定は誤りである。

 これが見事な反論であることを確認するとともに、この反論から真なる運動法則へ到達することは別問題である。原典テキストの批判や解釈が生み出すものと真なる法則の発見は別の事柄なのであり、多くの注釈者たちの試みは目的を達することなく終わったのである。ガリレオの真骨頂は上述のようなアリストテレス批判ではなく、運動に関する実験の考案とその結果の数学的表現だったのである。