花が咲き過ぎたのか、人が植え過ぎたのか?

 画像の紫陽花の姿を見て、何が自然で何が不自然かなどとつい傲慢に考えてしまう。当の紫陽花にとって、自然、不自然などと判断されるのは余計なお世話に違いないのだが、私たちはさらに「美しい自然」、「醜い自然」などと図に乗って、自然を自らの享楽の対象として平気で品定めする。自然が美しい、醜いというのは、所詮自然にはどうでもよいことで、文字通りの自然は美しくも醜くもない。自然を丸ごと掴むことなど人にはできない相談で、自然の一部を一瞥することしかできず、それを自然と呼んでいるに過ぎない。自然を知ると言うとき、私たちは自然の歴史、風景、仕組みなどの僅かな断片を知るに過ぎない。自然を知らないくせに巧みに利益を生み出し、自然を壊し続けることが私たちの生き様なのである。

f:id:huukyou:20180525044406j:plain

f:id:huukyou:20180525044427j:plain

f:id:huukyou:20180525044510j:plain