説一切有部(せついっさいうぶ)の主張は本当なのか

 説一切有部は部派仏教の一つと言われ、その教義への批判が大乗仏教誕生の契機になったと説明される。専門外の私にはその教義内容が腑に落ちないのである。二次資料しか知らない私に大したことは言えないのだが、最初から批判されて然るべき内容になっていて、その批判が功を奏して空の思想や唯識思想が生まれ、そのエッセンスが『般若心経』に凝縮されているという経緯は、意図的につくられたシナリオであるようにしか思えないのである。私の疑問のアウトラインを手短にスケッチしてみよう。まず、私が気になる説一切有部の主張を三つにまとめてみる。

(1)「仏教はあらゆるものの存在を「刹那滅(瞬間的な消滅)」として捉える。あらゆるものは、無数の基本的なものが縁起によって因果関係を結び、存在を構成するのだが、その存在は一瞬間だけで、瞬間的に生起し消滅する。そして、次の瞬間に同じものによって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅する、そしてそれが連続すると考えるのである。われわれには持続して存在していると見えるものは、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったもので、これが刹那滅である。基本的なものの構成が変化すれば、存在するものも刹那ごとに変化する。ここにすべてのものが永久に変わらないものはないという無常、無我が説明されるロジックがある。」
(2)「部派仏教の説一切有部は、刹那滅の立場に立ち、瞬間、瞬間の生起、消滅を過去、現在、未来の位相で捉えた。つまり、生起と、存在を構成するもの(ダルマ)が未来から現在に現れ出ることであり、消滅は現在から過去へ去ることである。瞬間ごとに生起、消滅するからそこには恒常的な自我は存在しない。しかし、存在を構成するものはこれ以上分割できない極微の単位だから、それ自体は恒常的に実有とした。つまり、過去、現在、未来にわたって実有というのである。」
(3)「有部のこの考えを大乗仏教は批判し、対立軸として龍樹の「空」の思想が生み出された。部派仏教の中にも、有部に対立する考えが生まれた。それは有部から分かれた経量部である。有部が過去や未来をも視野に入れるのに対して、経量部は現在だけを問題にする。すなわち、過去に見たものは記憶の問題、未来に見るものは予想の問題として認識から外し、刹那滅を厳密に現在だけに限定する。すべてのものは、各瞬間に生起し消滅する。すなわち各瞬間に別のものとして生まれ変わっていく流れとしてとらえ、そこには不変の同一性を保って続いていく本体のようなものはないと考える。世親は、大乗仏教に移る前は経量部の立場をとっていた。経量部の立場から有部の思想を批判したのが『俱舎論』である。その後大乗仏教に移って唯識思想を大成するが、刹那滅の考え方については経量部のものをそのまま唯識思想に持ち込んでいる。存在は現在の一瞬だけ、ものごとの認識は思惟ではなく、一瞬の知覚(直観(感))のみとするのである。」

 説一切有部は部派仏教の有力部派の一つ。紀元前1世期の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であったという。「あらゆる現象」を構成する実体として、法(ダルマ、もの)を想定し、主観的な我(人我)は空だが客体的な事物の類型(法)は過去、現在、未来に渡って実在するとした。説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と言われてきた。森羅万象を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、私たちがそれらを経験、認識できるのは現在の一瞬間である、という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間私たちに認識され、すぐに過去に去っていくという。このように私たちは映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なったものを経験しているのだと、諸行無常を説明する。
 (1)と(2)は「すべてが瞬間毎に変化することと、その変化を通じて不変のものがある」と明らかに矛盾する主張だと解釈でき、それが正しければ(3)の批判が出てきて当たり前と言うことになる。こんな自明のことが大乗仏教へのシフトだったとは考えにくいのである。これが私の疑問である。これでは説一切有部はものを考えない集団になってしまう。もっとずっと賢い集団だった筈である。
 龍樹と世親(1)でパルメニデスアウグスティヌスの考えを述べたが、上述の(1)と(2)はそれぞれアウグスティヌスパルメニデスの考えに対応している。特に、アウグスティヌスの時間論とよく似た状況が設定されている。だが、過去や未来はなく、あるのが現在だけというアウグスティヌスの主張とは違っていて、実在するものは実体を持つものであり、実体は過去、現在、未来を通して永遠である、と説一切有部は考える。賢い集団としてどのようにこの実体を解釈したのか想像してみよう。

 昨日の母と今日の母が同じなら、明日の母も同じで、そうなら永遠に続くことになります。逆に、もし違う母であるというのであれは、この母はどこの母なのでしょうか。刹那滅は、「すべての存在は、生まれた次の瞬間には消滅する。しかし一瞬前の存在を原因として次の一瞬の存在が生じる。したがって、常に連続的に存在することができ、しかも、その新しく生まれる存在は、一瞬前の存在と全く同じではない」と主張する。少しづつ老いていく母、その一瞬ごとに少し違った母になっているという訳である。この説によれば、永遠に続く実体は一切無く、すべてのものは同じように見えても移り変わっているので、永遠に変わらないものはなく、実体は存在しないということになる。
 結局、母は一瞬一瞬生まれ変わっているので、過去や未来にはその母は存在せず、今という瞬間のみに存在を続けているということになる。今日の母は昨日の母と違った母となっている。だが、昨日の母は存在しないといいながら、昨日の母と言っている。つまり、私たちは現在知覚している母と、記憶や想像している母を比較している。だから、この母は過去にも現在にも未来にも存在していて、意識の対象こそ母の実体である。説一切有部はこのことを次のように述べる。
  
もし過去や未来の対象が実在のものでないとすれば、私たちが過去や未来のものについて意識するとき、その意識は対象のないものになる。だが、対象のない意識などあり得ない。したがって、私たちが過去や未来のものについて意識できるということは、過去や未来にも対象が実在しているからである。

 説一切有部の実体とは、結局意識の対象のことであり、言葉の対象としてのものということができる。これは正に真理の対応説。これに異議を唱えるのが真理の整合説で、これが龍樹や世親の立場になっていく。これが、素人の私の今の結論だが、未来の結論はどうなるか…